東京下町見学(その18・最終回)

たった二日間の東京見物であったがレポが思った以上に長文となってしまった。昨年の東京の旅からの思い入れが非常に大きかった事が原因かもしれない。今回の旅は伊蔵の東京の街の見方を変えた旅といえる有意義な旅であった。

昨年、神田の街で『神田まつや』の蕎麦屋の古い建物の佇まいを見てからというもの東京の下町に非常に興味を覚え、そうした記事を特集した雑誌は努めて読んでいた。今回時間の許す限り見て廻れたのではないかと思う。しかしまだまだ江戸東京には隠れた下町があるに違いない。次の目標を探さねば!と決意する伊蔵であった。
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旅の最後に伊蔵はJR東京駅丸の内北口前にある『丸の内OAZO(オアゾ)』へ寄ってみた。
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『丸の内OAZO』は2004年にオープンし東京駅周辺の新名所になっている商業施設である。数ある商業施設の中で伊蔵が最も行ってみたかったのが『丸善・丸の内本店』だ。
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丸の内OAZOの中で丸善は実に1階から4階までを占める巨大な本屋だ。フロアを紹介すると
●1階・・・ビジネス書
●2階・・・雑誌・文芸書
●3階・・・一般書・専門書
●4階・・・洋書・文具・ギャラリー
ざっとこんな感じ。
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店に入って見て思ったがあまりにも本が多くて目指すべき本がどこにあるのか分からない程である。しかし店内に検索機器が用意されていて容易に本が見つけられる様になっているので安心だ。帰りの新幹線を待つまでの間、じっくりと店内を堪能させて頂いた。

午後3時前に東京駅を出る新幹線に乗り、伊蔵は地元に無事帰還した。もう少し東京でゆっくり時間を取っていろいろ廻りたいところではあったがなかなかそうはいかないのが残念だ。これからも東京という街については細かく調べていきたいと思う。限られた時間でじっくり廻れる様にきちんとした下調べも大切だ。

今回の旅ではメモを取りながら廻ったので帰って来てブログにレポートを書くときに随分役立ったし、各所で頂いて来たパンフ、資料も役立った。またブログを更新する為に改めてその場所についていろいろ調べてみるという作業も非常に面白かった。新たな知識として伊蔵の頭の中に蓄積されることだろう。

最後にこの長いレポートを読んで下さった方々に一言お礼を申し上げなければならない。
伊蔵のレポートが何かの役に立てば幸いです。有り難うございました。<完>

東京下町見学(その17・神田やぶそば)

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『湯島聖堂』を後にした伊蔵はしばらく秋葉原の電気街をうろうろと歩き、時刻は昼になった。かねてからの予定通りに『神田やぶそば』へと足を進めた。
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この『神田やぶそば』も昨日訪れた『神田まつや』と同じく蕎麦通にはとてもよく知られている老舗の名店である。場所も「まつや」とに程近い神田淡路町に在る。幕末の名舗、本郷団子坂の蔦家(つたや)の支店、連雀町店(れんじゃくちょう)(昭和8年までこの神田須田町と淡路町は連雀町と呼ばれていた)を明治13年(1880年)に堀田七兵衛が譲り受け、『蕎麦麦』の屋号で営業を始めた。以来100年あまり蔦家の廃業にともない『蕎麦麦本店』として看板を受け継ぎ江戸っ子独特の気質と味の伝統を守り現在に至っている。

こちらの『神田やぶそば』の店の廻りもビル群に囲まれてしまっていてこの一画だけがぽっかりと全く違った風雅な建物として残っている。高い板塀に囲まれた木造平家建ての建築物は関東大震災後に再築されたもの。店内も何度も改装されているという。

お昼時というのと蕎麦の有名店ということもあり、伊蔵がこの店に辿り着いた時にはすでに蕎麦屋の店先(板塀の中の庭)には順番待ちの団体客で埋まっていた。しかし伊蔵は一人だったのですぐに店内に通してくれた。
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店内は外から見た建物から想像するよりかなり広く右側に厨房、右側一番奥に帳場があり、左側は手前に椅子席、奥に座敷といったレイアウト。椅子席の方は店外の立派な庭を眺めながら蕎麦を楽しめる。しかし伊蔵が通されたのは座敷席の方であった。この『神田やぶそば』の店内に入るときも「神田まつや」と同じく

『いらっしゃいぃ〜〜〜ん』

の独特の呼び声に迎えられた。これは老舗蕎麦屋独特のものなのか、江戸独特のものなのかは分らないが伊蔵のような地方の人間には珍しく感じた。またこの『神田やぶそば』の特徴として、お客さんの注文を厨房へ知らせる『通し』といわれる呼び声が店内に響いているというところだ。帳場には勘定を受け持つ男性と多分この店の女将さんが二人一組で立っており、この女将さんがお客から注文が入った紙を店内に何人もいる花番(はなばん)と呼ばれる店員さんから受け取ると

『せいろうぅ〜いちまいぃ〜〜』
『お銚子一合おかわりぃ〜〜〜』
『焼き海苔、むらさき(醤油のこと)いりませ〜〜〜〜ん』

といったようにまるで百人一首の歌詠みのごとくに注文を詠み上げ、厨房に通すのである。これが非常に耳に心地よい。注文を通し、蕎麦がお客に供されるチェックするのが帳場の女将の役目だというわけだ。そのため帳場のある場所は店内が一目で見渡せる場所にある。ここで伊蔵は『せいろうそば』一枚630円を注文した。
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やがて『せいろうそば』が伊蔵のもとに運ばれて来た。一枚では少々量が少ないようであった。周りを見てみるとだいたいの人が二枚注文するか、おかわりするか他の品物を注文している感じだった。画像では分かり難いがこの『神田やぶそば』で出される蕎麦は麺が淡い緑色をしているのが特徴の一つである。

この色は蕎麦殻の下の甘皮も一緒に挽いた「挽きぐるみ」だからこそ出るらしい。夏場は蕎麦の色が衰えがちで黒っぽくなってしまう為、工夫が成されている。蕎麦もやし(そばの若芽)をすったものを蕎麦粉に混ぜたことにはじまり、菓子用の色素や抹茶を使った事もあるそうだが、現在はクロレラを用いているらしい。おいしい蕎麦を気持ちよく食べていただくという姿勢がこの工夫にも現れているようだ。

蕎麦は蕎麦粉10・小麦粉1の割合で主に内地産(長野、青森、北海道、茨城他)の最上級粉を用いていて、蕎麦汁は昆布、鰹節だしの辛口のコクのあるものを使用している。「まつや」で蕎麦を食したときも感じたが江戸の蕎麦汁はとても濃くて辛いと伊蔵は思った。ここ『神田やぶそば』の蕎麦汁は「まつや」よりも濃い味のようだ。蕎麦と一緒に汁を啜ると濃厚な鰹の風味が広がる・・そんな感じだった。伊蔵は関西人ではないが、ここまで濃いコクのある蕎麦汁で蕎麦を食した事がなかったのでとても新鮮な印象を受けた。本来蕎麦とは淡白な味である為、濃い汁で食べるのも悪くはない感じもした。
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この『神田やぶそば』でも蕎麦湯をたっぷり飲み、店を後にした。店外の庭にはまだ順番待ちをしている人々が沢山居た。こういう有名な老舗店はあらかじめ時間を外して訪れる事が好ましいだろう。<つづく>

◆神田やぶそば
営業時間 11:30〜19:00
定休日 年中無休(1月・8月を除く)
千代田区神田淡路町2丁目10
電話 03-3251-0287
交通アクセス
JR御茶ノ水駅 徒歩3分 
地下鉄丸の内線淡路町駅 徒歩2分 
地下鉄銀座線神田駅 徒歩5分 


東京下町見物(その16・湯島聖堂)

神田明神境内前の本郷通り(国道17号)を挟んで南側に都会の真ん中にというには不釣り合いなうっそうとした森がある。
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史蹟『湯島聖堂』がある森である。伊蔵はこの湯島聖堂には立ち寄る予定は無かったのだが、朝からこの暑さにまいってしまい日射しを避けるのに丁度よいこの森に自然と足が向いてしまったというわけ。
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聖堂敷地内は思った通り日射しや暑さをしのげる都会のオアシスといった感じで涼しさを感じる事が出来る。『入徳門(にゅうとくもん)』をくぐった所にある石段の下に立ち、上を見上げると何やら「黒い門」が見えて来た。伊蔵はこの『湯島聖堂』に関しての下調べをして来なかったので全くどのような場所なのかという事が分からなかった。この「黒い門」もよく見る神社特有の門の建築とは一風違っているようだ。
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この門は『杏檀門(きょうだんもん)』という。先程からの門の名称とこの『杏檀門』の建築様式を見るにおいて、中国に関係のある建物という事がわかる。神田明神の鮮やかな朱色の門とは全く違い、非常に渋い印象がある。
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杏檀門をくぐると前庭というか中庭のような広場があり、正面に神社でいう本堂にあたる建物、『大成殿(だいせいでん)』が見えた。明らかに中国様式の造り。ここで『湯島聖堂』の歴史について語らねばなるまい。

『儒教(じゅきょう)』という紀元前の古代中国で興った教えがある(儒教に対しての細かな説明は長くなるので避ける)。春秋時代中国の「魯(ろ)」という国の『孔子』によって体系化された。この儒教の中の学問的な部分を『儒学(じゅがく)』という。この教えは日本にも5世紀頃に入って来た。この儒教の教えは時代が下る毎にいろいろな学者によって様々な解釈がされるようになり、その中から『朱子学(しゅしがく)』『陽明学(ようめいがく)』などの考え方が生まれたりした。

この儒学の中の『朱子学』を封建支配の為の思想として用いようとしたのが徳川幕府であった。徳川家康は当時の儒者の中でも高名だった『藤原惺窩(ふじわらせいか)』に対し仕官を要請したが惺窩はそれを辞退し、自分の弟子である『林羅山(はやしらざん)』を幕府に対し推挙した。以後の羅山は家康、秀忠、家光と徳川三代に渡って学問面での重要なブレーンとして幕政に関与し、上野の忍が岡に居を構え、孔子を祀る孔子廟『先聖殿』を建て、私塾とした。

羅山の孫、『林鳳岡(はやしほうこう)』の時代になると幕府は幕政の部署に『大学頭(だいがくのかみ)』という職を設け、鳳岡はその職に着き、幕府四代将軍家綱、綱吉、八代将軍吉宗の時代まで重用された。
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五代将軍綱吉(生類憐れみの令で有名、犬公方とまで呼ばれれ評判が悪い将軍だが学問奨励の面ではその評価が高く、最近歴史的再評価がなされている)の元禄時代、林家にあった『先聖殿』を神田昌平坂近くに移した。林家の私塾から幕府官立の『昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)』となり幕府の教育・研究機関の役割を果たす事になった。これが『湯島聖堂』の前身となる。
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この『湯島聖堂』の建物は関東大震災によって焼失し、現在の建物は昭和10年(1935年)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計により、鉄筋コンクリート造りで再建されたものだという。屋根の上に鯱が載っているが普通日本の建築に見られる鯱は屋根に対して内側を向いているのにこの建物の鯱は外を向いているのが面白かった。この鯱は鬼犹頭(きぎんとう)という想像上の神魚で、水の神として火(火災)を防ぐため祀られているという。
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鬼犹頭の他にも屋根には猫に似た動物の像が載っている。鬼龍子(きりゅうし)という。神社の狛犬などと同じく悪鬼邪神が内部に入って来ないように守っているのだという。
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大成殿内部はとても質素なイメージ。壁や天井が黒くガランとした感じだった。学問所なので余計な装飾は不要という事であろうか。中央の祭壇には孔子が祀られている。
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これが孔子の肖像画。なんだかヒゲ面の怪しい商人が手を合わせてニギニギしているような肖像画だが(笑)まぎれも無く、釈迦、イエスと並び聖人と称せられる『孔子』である。
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こちらは湯島聖堂の森の中にひっそりと佇む孔子像。孔子は自らがが体系化した『儒教』が2000年もの長い間(孔子だけでなくその他の思想家、宗教家等を含めて)、世界の歴史の中で影響を及ぼし続けるなんて事を果たして考えていたのだろうか?とふと考えてしまった。逆に人間の精神的・本質的な部分は変わらないからなのかもしれないとも思った。だから本質的部分を突き詰めて人に説いた世界中の哲人・聖人の考えは長い間もてはやされているのかもしれない。

しかし後世の人達は聖人達の素晴らしい考え方を自分の都合の良いようにねじ曲げて利用している事が多々あるのも事実だ。アメリカとイスラム諸国との戦争やパレスチナの問題など同じ事が言えるのではないかと思う。人間の歴史というのは今も昔も本当に争いごとが絶えない。なんて事を考えながら伊蔵は『湯島聖堂』を後にした。<つづく>

東京下町見学(その15・天野屋)

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神田明神の参道大鳥居の脇に『天野屋』は在る。弘化3年(1846年)創業の老舗甘酒茶屋である。この店の甘酒は『酒』の文字が付くがアルコール分は一切含まれていないそうだ。一般に出回っている甘酒は甘さを付ける為に砂糖と酒を加えているが本来の甘酒とは炊いた『米』と『糀(こうじ)』のみで造るものなのだそうだ。

『糀』と『米』を混ぜ合わせ60度で10時間ほどおくと甘酒は出来上がるが糀をじっくりと発酵させないと米のデンプン質を引き出す事は出来ないため、ただ混ぜ合わせるだけでは甘さは引き出せないという。ここ『天野屋』ではその重要な原料である『糀』から造っている。

『天野屋』の店の地下には『土室(つちむろ)』というレンガで周囲を補強したトンネルがあり、そこで糀を手造りで造っている。この土室は天野屋の敷地外にも幾筋も延びていたらしいがバブル期に地上にビルが多く建ってしまい、いくつかの土室は潰されてしまって現在使用されているのは一部だけだという。
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この辺りの地質は『関東ローム層』の高台であり土を掘っても水の噴出も無く、また水分をよく吸収する土質であり湿度が一定に保たれる環境が糀の熟成に一役買っているのだという。伊蔵はこの『天野屋』に入って甘酒は頂かなかったのだがこの甘さはとても砂糖を使用していないとは思えない程だという(しかし嫌みな甘さではないという)。
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ここ『天野屋』では甘酒の他にも『味噌』『納豆』などの発酵食品も手に入れる事ができる。このような歴史ある老舗だがこれらの商品はネット通販でも購入可能だ。

●天野屋ホームページ http://www.amanoya.jp/

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天野屋の店舗脇を覗くと御主人の趣味なのか沢山の骨董品が並んでいた。古そうな信楽焼の狸が立っていた。
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狸の胸にはこのような張り紙が貼られていた。

『私は昭和十三年生まれの古狸です。戦火を逃れ、神田明神の参道で毎日皆様を見守っています。狸は(他を抜く)といわれ、旅館、料亭、商家等に縁起が良いので沢山の仲間がいます。天野屋と共に末永く私を可愛がって下さい。  古狸より』

伊蔵よりずっと歳上の狸さんだ(笑)くだけた表情が何ともいい雰囲気を醸していて張り紙通りに話し掛けているような可愛さがある。
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ショーケースには『ビクターマーク』で有名な犬が並んでいた。なんだかこの並び過ぎのところが伊蔵は笑えた。伊蔵好みは左から二番目の犬の表情がいいと思うのだがいかがだろうか。(小さいのは見え無いですがね・笑)<つづく>

東京下町見学(その14・神田明神/後編)

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さてさて東京下町見物も数える事14回になってしまった・・・。調べはじめると止まらないのが伊蔵の癖、御勘弁頂きたい。『御社殿』での参拝の後、伊蔵は境内をウロウロと散策し始めたのだった。結構ウロチョロしたつもりだったが今回の旅を終えて『神田明神』についていろいろ調べていたところ、この神社境内に『銭形平次の碑』が存在する事が判明し伊蔵は見ていない事に後悔してしまった。完全な伊蔵の下調べ不足である・・。
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なぜこの『神田明神』境内に銭形平次の碑があるのかというと、銭形平次が神田明神近くの長屋に住んでいたという設定からという事が理由らしい。平次の碑とともに平次とともに捜査をする『八五郎』の碑もこの神田明神にはあるという。う〜〜ん悔しい見忘れた・・・。
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『御社殿』脇の『鳳凰殿』の前には『少彦名命(すくなひこなのみこと)・えびす様』の像があった。像というより巨大なオブジェといった感じ(笑)円弧を描いた海の波の中にイルカや鯛、亀、飛魚などがおり、小さな舟に乗った少彦名命がいるといった像である。
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これがなかなか可愛い像でユーモラスであった。日本神話をモチーフに造られた像らしい。『少彦名命』は『大国主命(おおくにぬしのみこと)』と協力して日本の国造りに貢献された神様である。大国主命は他にも名前が沢山あり、神田明神では『大己貴命(おおなむちのみこと)』として祀られている。また大国主の大国の文字は『だいこく』とも読める為、一般には『大黒様』と言った方が通りがいいであろう。
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こちらがその『大黒様』の像。そのお姿にありがたい迫力が感じられ伊蔵は思わず手を合わせてしまったのだった。
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ここ『神田明神』の祭礼は『神田祭』または『天下祭』とも呼ばれていて日本三大祭、江戸三大祭のひとつとしても有名である。上の画像のような神輿がいくつも行列して町を練り歩くとても賑やかなお祭りだという。一説には平将門の怨霊を鎮める為の祭礼だともいわれている。
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初めて訪れた神田明神の伊蔵の印象は怨霊を祀る神社とはいえやはりとても美しい社殿と境内を持つ神社だという感想を持った。これは境内の周りが大都会特有の灰色のビルに囲まれている為、社殿や諸門の朱色が際立って美しく映るからかもしれない。社殿の色合いが似ている京都の『平安神宮』ではこういう印象は受けなかったであろうと伊蔵は思った。江戸東京の庶民の尊敬と町の歴史を見続けてきた『神田明神』。来てよかった。<つづく>

東京下町見学(その13・神田明神/中編・将門伝説と怨霊信仰)

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朱色が鮮やかな『随神門』をくぐると『御社殿』が見えて来る。江戸時代に造られた社殿は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失したが、昭和9年に権現造りの鉄骨鉄筋コンクリート総漆朱塗りの現在の社殿が完成した。この社殿は東京大空襲の戦災を免れ平成15年には国の登録文化財に指定されている。
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当時この鉄骨鉄筋コンクリートで寺社を造るというのは画期的な出来事だったという。青銅色の屋根、破風の金色と朱色、境内の木々の緑・・都会の真ん中に在りながらも大変美しい社殿だと伊蔵は思った。江戸東京の人々の尊崇を集めている証拠を垣間見る事も出来た。先程の『随神門』とこの『御社殿』との間を『御百度参り』している若い女性を見たのだ。

『彼女は一体何を願っているのだろうか・・・』

伊蔵は非常に気になったのだが、御百度参りは終るまで誰とも口を利いてはいけない決まりがあったような・・口を利いてしまえば願いは成就出来ないという事をどこかで聞いた事があるので話し掛けるのは失礼だろう。とにかく大都会にまだこのような古風な女性が居たという事に伊蔵は嬉しさを覚えた。
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さて前回、この神田明神は元々は千代田区大手町に在ったと書いた。今その大手町には『将軍塚』というものが残っているのだが具体的にどんな場所かというと『平将門の首塚』がその場所に残っている。
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『平将門』は天慶3年(940年)に藤原秀郷らの手によって討たれ、その首は京都の五条河原にさらされたのだが、深い怨念をもつ将門の首は自分の胴体を求めて東の空に飛び去ったという・・・。その首が力尽きて落ちた場所というのがこの『首塚』周辺だという伝説が残っている。神田明神が現在の場所に移転した後も首塚だけはこの地に残され、粗略に扱ったりすると必ず祟ると恐れられている場所なのだ。

日本の一つの文化としてこの様に『怨霊』を祀るという事がしばしば行われる。祟られると困るから高い官位を与え神として祀り災いを避けるいわゆる『怨霊信仰』というやつだ。歴史上の人物で有名な『怨霊』といえばこの『平将門』のほか『菅原道真(すがわらのみちざね)』がよく知られている。
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『菅原道真』は学問の神様として有名な人物。
平安時代の学者であり政治家であった。宇多天皇によって重用されて『右大臣』の位にまで登り詰めたが道真に朝廷の権力が集中する事を嫌った藤原氏の策謀により九州の太宰府に左遷されて、その地で非業の最期をとげた。道真の死後、京都の朝廷内では次々と異変が相次ぎ、御所の清涼殿が落雷の被害を受けたり、藤原氏の者に死者が出るなどの出来事が次々起こった為、『道真の祟り』として恐れた朝廷は道真の名誉を回復し太政大臣の位を与え、清涼殿落雷事件から道真は『雷神』として恐れられたので『天神様』として祀る事にした。

その道真が祀られた場所というのが京都の『北野天満宮』である。

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このように日本各地にある神社にはそれぞれ謂れがあるものが多い。ただ単に存在しているわけではないのである。これらの事を調べるのも伊蔵にとって面白味のある事なのだ。また現在に至るまでそれらの神社が庶民の尊崇を受けているという事はある種の『恐れ』激しく強力な怨霊であるが故にそれが良い方向と転じて我々庶民の願い事も必ず叶えてくれるのではないか・・・そんな気持ちが日本人の信仰心の奥底にあるのかもしれない。<つづく>



東京下町見学(その12・神田明神/前編)

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外堀通りから東京医科歯科大学へと続く階段を登って聖橋のたもとに至り本郷通りを北へと向かった伊蔵が次に目指した場所は『神田神社(神田明神)』である。
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『神田明神』(正式名称:神田神社)は天平2年(730年)の創建で約1300年の歴史を持つ東京の神社の中でも最も古い神社のひとつである。元々は千代田区大手町(現在の将軍塚周辺)にあったが、徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)、江戸城の表鬼門の方角にあたる現在のこの地へ移された。以後江戸時代を通じて『江戸総鎮守』として幕府だけでなく江戸庶民に至るまで多くの人々の崇敬を受けた。
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神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸ノ内・旧神田市場・築地魚市場など108ヶ町会の総氏神としても知られており家庭円満・縁結び・商売繁盛・事業繁栄・厄除開運・医薬健康などのご利益があるとされている。御祭神は以下の通り。
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●一の宮・・大己貴命(おおなむちのみこと)大国主、いわゆる大黒様
●二の宮・・少彦名命(すくなひこなのみこと)えびす様
●三の宮・・平将門命(たいらのまさかどのみこと)
大己貴命・少彦名命は協力して日本の国づくりをし農耕や漁業をすすめて日本人の生活の基盤を築いた神様。
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平将門命は実在の人物で桓武天皇の子孫で『平氏』の姓を授けられた『高望王(たかもちおう)』の孫。平安時代の武将である。関東一円を手中に収めて自らを『親皇』と名乗った為、このことに危機をおぼえた朝廷から逆賊とされてしまい『藤原秀郷(ふじわらのひでさと)』によって討たれてしまった。ここ神田神社では平将門は朝廷の悪政に苦しむ庶民たちを自らの命を投げ出した英雄として祀られている。有名な『平将門伝説』については後ほど語ろう。
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この神田神社も都会の真ん中のビル群に囲まれた中に境内がある。灰色のビルの中で鮮やかな朱色基調の社殿はとても綺麗に映えていた。伊蔵がこの神田明神の存在を意識し始めたのは、博学の作家として知られる『荒俣宏(あらまたひろし)』氏の著作『帝都物語』を読んだ時に始まったといっていい。
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帝都東京の破壊を画策する謎の魔人『加藤保憲』とそれを阻止しようとする人々との話なのだが当時かなりハマって読んでいた本であった。当時は一般に「風水」「陰陽師」「式神」「奇門遁甲」「安倍晴明」などという言葉や人物はまだ知られておらず、それらの言葉を世間的に認知させるに至った『帝都物語』という本はそれほど話題になったし映画化もされたり、その他の関連番組のネタとしても放送されたりした。
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この物語の魔人『加藤保憲』は東洋魔術に精通しており、様々な魔術を使い人を惑わしたり利用しつつ、帝都東京の地下に眠る怨霊平将門を甦らせ東京の破壊を目論む。その為映画では平将門縁りの神田明神もロケ地に選ばれ撮影も行なわれた。
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本を読んで以来、伊蔵はいつかこの神田明神へと足を伸ばして見たかった。長い時間が経ってしまったが今回それが実現したというわけなのだ。<つづく>

東京下町見学(その11・御茶ノ水/後編)

そもそもこの御茶ノ水付近、都心の中に突然現れるこれほどの高低差のある渓谷がなぜ存在するのか。実はこの渓谷は自然のものではなく、人工的に造られた渓谷なのである。
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江戸の町の歴史は『豊臣秀吉』によってこの関東・武蔵野の地に移封された『徳川家康』の都市開発以前よりも古く、最初に江戸の土地・自然に対して人工的な手を加えた開発を行ったのは『太田道灌(おおたどうかん)』だといわれている。太田道灌の開発を土台に様々な手を加えて大規模な開発を行ったのが徳川家康と考えていいだろう。本格的にこの開発事業が開始されたのは江戸幕府開幕後の事である。

その頃の江戸は今の日比谷や銀座の辺り等は『日比谷入江』という湾だった。これを家康は埋め立てて土地を造った。埋め立て用の土は『山の手』の台地を削ってそれに充てた。
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江戸城の堀の廻らし方を観察してみると本丸から『のノ字型』になっているのがわかる。江戸の町もこの『のノ字型』に沿って発展していったのである。
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さてここで御茶ノ水付近の人工的渓谷の話に戻る。
この付近は『本郷台(本郷台地)』と呼ばれていて北側から「山の手」が神田付近にまで緩やかな尾根を伸ばしていた土地だった。しかし江戸城防衛と洪水防止、江戸町民への真水の確保(水道整備)等の観点からこの『本郷台』を南北に人工的に分断し『外堀』を造った。下の画像二枚は御茶ノ水の現在の地図と江戸時代のほぼ同じ地点の絵図である。
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この大規模な難工事を幕府の命令により普請させられたのは仙台藩の独眼竜で知られる『伊達政宗』であった。彼は戦国武将の中で最後の生き残りの感があり、草創間もない江戸幕府にとってはいつ天下を狙うかもしれぬ油断のならない人物として見られていた。
そういう伊達仙台藩の力をこの外堀普請によって削ごうと幕府は考えたのだ。この難工事によって仙台藩の財政は逼迫し『伊達騒動』の発端となった。この外堀の別名は『伊達堀』『仙台堀』とも呼ばれている。

『神田川』はもともと『平川』と呼ばれていて本来はもっと西側(水道橋付近)を南北に流れて江戸湾に注いでいたのだが、この外堀の完成とともに流れを変えさせられて東西の流れとなって現在は隅田川に注ぐ形になっている。神田川源流は井ノ頭(いのがしら)の弁天池で幕府の命で『神田上水』として整備された。

神田川(外堀)によって南北に引き裂かれた『本郷台』は北側はそのままの名称が残ったが神田川の南側の台地は『駿河台(するがだい)』と呼ばれた。これは駿府(静岡)で徳川家康が亡くなった後、家康に仕えていた多くの家臣が江戸のこの地に移住し居を構えた事から『駿河台』とか『駿台(すんだい)』と呼ばれる事になったのだそうだ。

御茶ノ水の地名の由来は、この辺りにあった『高台寺』という寺の庭に湧き出た水を江戸幕府第二代将軍徳川秀忠に献上し、その水で御茶を喫した事という説、将軍が鷹狩りの帰りに高台寺に立ち寄って湧き水で御茶を飲んだところ旨かった為に将軍御用達の御茶を入れる為の水(つまり御茶ノ水)になったという説などがある。

下町散歩の魅力はその土地の今と昔を比べてみるという作業が面白いところにひとつの楽しみがある。東京は世界有数の先進的大都市であるがそういった古さと新しさが絶妙に調和している都市ともいえる。そういう一つ一つを検証し楽しみながら路上観察出来る場所が東京には沢山ある。

反対に京都は長い間、日本の都であった事もあり歴史も長過ぎる為、古いものが保存され過ぎており(これはこれで大切な事ではあるが)極端に町の景観を損ねる新しい建物は疎外されてしまうというところがある。その為に京都という町は東京のように雑多に新しいもの古いものが極端に混在した町ではなく『今昔路上観察』という事がしにくいという事がいえるだろう。今回の旅で伊蔵はこの事実に気が付いた。<つづく>

東京下町見物(その10・御茶ノ水/前編)

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宿を後にした伊蔵は北の方角に向かい「昌平橋」を渡り、左折して『湯島聖堂』方面へと続く外堀通りの坂道を登っていった。(上の画像はクリックすると拡大します)
この外堀通り沿いに流れる川は、『かぐや姫(南こうせつがリーダーのフォークグループ)』の曲で有名な『神田川』である。

湯島聖堂の森を右手に望む場所まで坂道を登って来ると正面に神田川に架かる鉄筋コンクリート製のアーチ橋が見えて来る。
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『聖橋(ひじりばし)』である。関東大震災の復興事業として当時の「東京市」が造った昭和2年完成のアーチ橋だ。橋名の由来は橋の北側にある国指定史跡である「湯島聖堂」と南側にある国指定重要文化財のビザンチン風建物「日本ハリスト正教会復活大聖堂(ニコライ堂)」両聖堂にちなんでいるとの事。この聖橋の下まで辿り着いた伊蔵は神田川のたもとに立ち風景を眺めたのだが、ふと気が付いた事があった。
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上の画像の風景を子供の頃に見たような不思議な感覚に襲われたのである。子供の頃に東京には来た憶えが全く無いのにこの感じは一体なんなのか?しばらく分からなかったのだがあれこれ考えているうちにやっと思い出した。
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確かにこの場所には初めて訪れた伊蔵ではあった。しかし実は絵本の世界で伊蔵はこの場所を訪れていたのだ!その本は(どんなタイトルだったか定かでは無い)電車の絵本だったと思う。その中の挿し絵でこの場所が描かれていたのだ。その記憶が実際にここに訪れた伊蔵の脳裏に甦ったというわけなのである。ちょっと感動した伊蔵であった。

伊蔵が今居る場所から神田川を挟んで対岸には『お茶の水駅』がある。この場所はJR中央線、総武線、東京メトロ丸ノ内線が交錯している地点で、カメラマンや鉄道ファン、絵描き等にとっては絶好の題材・名所的存在となっているようで、前述した電車の絵本の挿し絵として取り上げられるのも当然だったといえるのだ。東京都という都市の複雑な地下の断面を眺める事の出来る数少ない場所だろう。
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上の絵は今伊蔵が立っている御茶の水付近の江戸時代の様子を描いたもの。正面に富士山が見えていることから、東側から西方向を見たものであろう。絵の右側の坂道が現代でいうところの「外堀通り」だろう。伊蔵もこの坂道を登って聖橋の下まで歩いて来たわけだ。<御茶の水/後編につづく>

東京下町見学(その9・宿)

老舗蕎麦屋『神田まつや』を後にした伊蔵は一路今夜の宿である『ホテルニュー神田』へと向かった。本当は東京下町見物というからには木造の旅篭のような宿に宿泊したかったのだが、なかなかそういう宿は見つかるはずも無く今回の宿は手軽にネットにて予約した。ネット予約は大変便利で、どこかに泊まりで出掛ける時は必ず活用している。
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『ホテルニュー神田』は都心にあり観光名所にも近く交通の便も非常に良い立地条件。しかも朝食バイキング付きで料金もリーズナブルなのが嬉しい。一階入り口脇には『ファミリーマート』も隣接しており夜食が食べたくなった時にも便利である。またチェックアウトはのんびり昼12時までとゆっくり出来、朝の時間せかせかしなくて済む。
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フロントロビーには週末という事もあり修学旅行の学生や老人会、家族連れなど様々な団体客を多く見かけた。伊蔵はチェックインを済ませ503号室へ。部屋に入ると夏の暑さと歩き疲れたせいか、すぐに横になった。しかしこのブログ『伊蔵通信』更新の為に今日一日、いろいろな資料やメモを集めていたのでその整理と本日のコースのおさらいとを終えてからの就寝となった。
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朝はぐっすりと寝たせいか比較的早朝に目覚めた。まだ朝食の時間には幾分早かったので部屋でニュースを見ながら過ごし、午前8時過ぎにホテル1階にあるレストランへ朝食を食べに行った。和洋それぞれ揃ったバイキング形式の食事であった。食後の珈琲も楽しめた。外を見ると今日もいい天気だ。かなり暑くなる事が予想される。本日も徒歩で廻る事もあり朝食というものの少し多めに腹の中に入れてから伊蔵はチェックアウトを済ませ、宿を後にしたのだった。<つづく>

東京下町見物(その8・老舗蕎麦屋訪問)

昨年の夏にも伊蔵は東京を訪れた事がある。
浅草界隈を廻って来たのだがこの秋葉原周辺も合わせて訪れた。
その時にこの神田の靖国通りに面した道路において、あるお店を発見したのだが当時はその店には来店しなかった。旅から帰って来てから「いつかは訪れてみたい」と強く思う様になっていた。そして一年越しで今回、来店が叶ったわけである。

その店の名は『神田まつや』。老舗のお蕎麦屋さんの事である。
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先程も記した様に、このお店は昨年この周辺を歩いていて偶然に発見したお店だったのだ。この神田靖国通り沿いは様々なビルが両側に林立しているのだが、この店だけは時代に取り残されたといってもいい程、唐突に現れる古い木造二階建ての建物でこの敷地のみだけがタイムスリップでも起きたような不思議な空間として伊蔵には見えて、かなり気になっていた店なのである。
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昨年の旅から帰って来てからこの『神田まつや』という店について情報を調べあげた。すると東京の蕎麦好きを自称する人々の中でこの蕎麦屋さんの存在を知らない人はいないといわれる程、有名な老舗の蕎麦屋さんだという事が分かった。また蕎麦の特集記事を扱った雑誌等を調べて見ても必ずこの『神田まつや』は紹介されており、蕎麦好きの伊蔵はますますこのお蕎麦屋さんの事が気になってしまったという訳なのだ。
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秋葉原見物を終えた伊蔵は秋葉原方面から神田昌平橋を南へと向かい、神田淡路町2丁目から神田須田町1丁目にある『神田まつや』の店先に立った。
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『神田まつや』は1884年(明治17年)福島家の初代市蔵翁がこの地に創業。120年の歴史を誇る老舗の蕎麦屋である。ニ代目を経て関東大震災後に小高家の初代政吉氏がこれを継承。代々小高家の方々がこのお店を継いで現在に至る。老舗の蕎麦屋らしい風格と歴史ある佇まいの店は、関東大震災後に建て直されたもの。太平洋戦争の東京大空襲時にも戦災を免れ、昔のままの姿(商家造り)を今に留めており、平成13年には東京都選定歴史的建造物に指定されている。

この神田周辺は東京大空襲での戦災被害が比較的少なかったという事で、昭和30年頃までのこの通りは瓦葺きの建物が多く軒を列ねていたという。それ以後は『神田まつや』の周りに次々とビルが建設され、今のようなビルとビルとの谷間に取り残された佇まいとなった。しかし今でも大通りを一歩中に入ると現代風の建物と古い建物が混在しているのを観察出来る。昔の東京の香りがこの町にはひっそりと息づいているのだ。

店の正面の左右に出入り口があるのだが、『右は入り口、左は出口』というように決まっている。伊蔵は右側の戸を開け、店内へと足を踏み入れた。

『いらっしゃいぃ〜〜〜ぃん』

という語尾を伸ばして上げるという独特の呼び声が店内に響き渡る。なかなか文字ではこの呼び声は表し難いのでご了承頂きたい(笑)実際にこのお店に足を運んで呼び声を耳にして頂きたいと思う。

狭そうな間口とは反対に店内はかなり奥行きがあり広かったが(全66席)午後4時に近い時間なのに満席に近い状態だった。しかしたまたま席が空き、すぐに座る事が出来た。平日等は店外にも行列が出来てしまうという話なので運が良かった。
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店内の奥には蕎麦打ち場があり、食事を楽しみながら職人さんが蕎麦打ちしているのを眺める事が出来る。壁には大きな壁掛け古時計、古くて巨大なトチノキ製の「こね鉢」が掲げられなかなかの歴史風情を感ずる事が出来て落ち着く。店内は薄暗い印象だがとても涼しくお客さんも江戸っ子らしい活気というものがあり、こんな早い時間だというのに日本酒やビールを片手に蕎麦を食していて何だかとても感じがいい。
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『さて何を注文するかな?』伊蔵はお品書きを手にあれこれと考え始めた。
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お品書きを見てみると蕎麦だけで無くいろいろな品がある事がわかった。折角なので蕎麦が食べたいと思ったのと、先程まで外を歩きとても暑かった事もあり、

●大ざる・・・・・800円也
●ビール(アサヒ・中)・・・・・600円也

を注文する事にした。店員さんのキビキビとしていながらも家庭的で優しい応対で非常に好感が持てた。しばらく注文の品を待っていると店員さんがビールとコップそれともう一つ小皿を持って伊蔵のテーブルの上に置いた。
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小皿の縁に貼付けられた茶色い物体は『味噌』であった。
お酒類を頼むと必然的にこの『味噌』が付いて来るらしい。つまり蕎麦が打ち上がるのを待つ間、お酒を飲み味噌を舐めながら待つという粋な計らいなのである。この粋な雰囲気に伊蔵の心はいやがおうにも昂揚してしまった(笑)
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ビールと味噌を舐めながらいい気分に浸っているとやがて注文した『大ざる』がやって来た。普通の『もり』『かけ』等の蕎麦、ざるそばもあったのだが、少々量が少ない気がしたので伊蔵は『大ざる』を注文したのだ。
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『神田まつや』の蕎麦の特徴は北海道・長野・福島などの国内の蕎麦の産地より良質なものを厳選し、甘皮の部分を残したまま石臼で挽いた“挽きぐるみ”蕎麦粉を使用し、つなぎには玉子と小麦粉を使用しているところ。それを江戸前の手打ちで仕上げている。また汁の方はダシ(本節からとる)の味が非常に良く出ており少し濃い目の汁となっている。素材へのこだわりと江戸下町の味を大切に守っているという丁寧な造り。

この丁寧な造りの下町の味には根強いファンが多く、蕎麦好きの人は勿論、サラリーマンやOL、各界の著名人まで訪れるという。平日でも800食分の蕎麦が打たれるというから驚きだ。
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また、食通として有名だった作家・池波正太郎先生のご贔屓のお店としても知られている。池波先生は『鬼平犯科帳』や『剣客商売』等の作品でよく知られている有名作家である。池波先生は山の上ホテルに滞在し執筆するとき等は毎日のようにこの『神田まつや』へと足を運び、とりわさで酒を楽しんで蕎麦を手繰ったらしい。

『うまいといえば「まつや」で出すものは何でもうまい。それでいて蕎麦屋の本筋を外していない』

と池波先生自身の著書でも書いておられる。また池波先生からまつやの主人に送られた手紙も残っているということだ。

余談が長くなった・・。さて伊蔵のもとに運ばれて来た『大ざる』。濃い目の汁にネギと山葵を投入し、適当な量を箸で手繰り一気に音を立てて頂いた。麺にしっかりとしたコシと弾力があり噛みごたえがあった。また濃い目の汁は鰹のダシの匂いがしっかり香り、麺と一緒に口の中で咀嚼すると蕎麦の味と絡み合ってとても美味しかった。

この後に出された『蕎麦湯』も堪能させて頂いた。
あまり白く濁っておらず綺麗な蕎麦湯であった。大きな柄杓のような器に蕎麦湯が入れられていて、なかなか小さな器に照準を合わせる事が出来ず、伊蔵は大げさ蕎麦湯をテーブル上にこぼしてしまうという失態をしてしまった(笑)しかし蕎麦湯もまた美味しかったので何度も飲んでしまった。
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蕎麦を食べ終わってからもこの店内の雰囲気が気に入って伊蔵はしばしの時間を『神田まつや』で過ごした。お勘定を支払うときの店員さんの笑顔も良かった。忘れられない思い出になりそうだ。伊蔵は出口である左側(店内から見ると右側)の戸から外に出た。
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すでに神田靖国通りには夕闇が迫っていた。伊蔵は宿への道を歩いていった。この辺りの蕎麦屋を廻りたくて近くに宿をとったのである。
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まだまだこの近辺には有名な蕎麦屋や老舗の店が沢山存在する。そして伊蔵は『神田まつや』での蕎麦の思い出を背にしながら本日の行動を終えたのである。次の蕎麦屋の話は次回に話す事にしよう。<つづく>

◆神田まつや
営業時間 11:00〜20:00 (土・祝日 11:00〜19:00)
定休日  日曜日
千代田区須田町1-13
電話 03-3251-1556
交通アクセス
JR神田駅東口 徒歩5分
地下鉄丸の内線淡路町駅A3出口 徒歩1分
地下鉄都営新宿線小川町駅A3出口 徒歩1分

東京下町見学(その7・変化し続ける街・秋葉原)

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『秋葉原(あきはばら)』
東京都千代田区外神田JR秋葉原周辺地区に栄える日本国内だけでなく世界的にも知られている一大電気街である。ただ単に略して『秋葉(アキバ)』とも呼ばれている。
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この街の『電気街』としての性格はここ数年で大分変化してきている。もともと秋葉原はオーディオやアマチュア無線等のマニア、電子部品、家電製品等を安く買い求めたい人々の集まる街だったが、20世紀末〜21世紀初頭にアニメ・ゲームマニア等が大挙して訪れる街に変貌を遂げた。彼等はいわゆる『オタク』とか『アキバ系』と称される。また彼等『アキバ系』は数多くのマスコミ報道番組で取り上げられたりした事もあり秋葉原の活性化に非常に貢献しているだけでなく『オタク文化』の経済効果は日本の社会ではもはや無視出来ない程に巨大なものとなっている。

しかし秋葉原の『マニアな街』としての性格は変わっていない。
いつの時代にも『マニア』という人は存在しているし、販売されている物も時代とともに変わっているわけなので秋葉原に集まる人々も変化するのも仕方がない事であろう。そういった意味で秋葉原という街は根源の『マニアな街』という性格は変わらないが、常に時代や流行のニーズというものを敏感に感じ変化し発展してきた街と言えよう。これからも変化をし続ける街といえる。
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江戸時代、この秋葉原周辺は下級武士の居住地だったそうである。
江戸という町は火事がよく発生した。この周辺も大火の被害になったという。明治維新後の東京都(当時は東京府)はこの地に広大な「火除地」を造り、さらに遠州(静岡県)から火除けの神として知られる『秋葉大権現』を勧請し『鎮火神社』を造営した。その後この『鎮火神社』は『秋葉神社』という名称に変えられ、周りの火除地の事を『あきばはら』『あきばっぱら』『あきばがはら』と呼ぶ様になったのが秋葉原の名称の由来だという。

戦前この地に廣瀬商会や山際電気商会(現在のヤマギワ)がラジオなどの製品等を販売し電気街としての歴史が始まろうとしていたのだが昭和16年に始まった太平洋戦争によりラジオなどの部品も軍に押さえられてしまい、工場も軍需工場に転用されてしまった。そして昭和20年3月9日から10日にかけてアメリカ軍による東京大空襲によって秋葉原一帯は焼け野原と化してしまったのだ。
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戦後はラジオの普及やもともとこの秋葉原に電気部品などを仕入れに来ていた人々が店を構えたり秋葉原は部品が安いという噂や進駐軍からの横流し品が多く集まった事、また交通の利便性も手伝って人々が集まりいち早く街として復興し始めたという。ここから『常に時代とともに変化する街・秋葉原』が始まったというわけだ。

伊蔵はこの秋葉原電気街に降り立ち、まずは2005年にオープンした『ヨドバシカメラ マルチメディアAkiba店』へと向かった。
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ヨドバシカメラ店内へは伊蔵の乗って来たつくばエキスプレス線秋葉原駅を地上に上がってすぐに入る事が出来る。非常に便利が良い。店内はとても混雑していた。フロア自体もとても広くて自分がどこにいるのかよく分からない・・伊蔵の悲しい田舎者の性だ(笑)

店員(販売員)もとても元気がよくて販売に力を入れており、お客に積極的に品物を売り込む。お客がどの商品を買おうか迷っている場合や商品の見た目は変わらないのに値段がなぜ異なっているのか、またその操作法に至るまでかなり詳細にアドバイス・説明をしてくれるのでお客にとってもかなり助かる。であるからお客の数もさることながら店員の数も多くなるわけで、店内の騒然とした様子はある種の迫力というものがある。またアキバらしく可愛い女の子を起用してのキャンペーン展開も店内では数多く行われており、客の商品注目度・購買意欲をそそる。世界一の電気街、秋葉原の勢いというものを感じた。

ヨドバシカメラを出た伊蔵は電気街の中心地である『中央通り』へと足を進めたが歩道が人間で溢れておりもの凄く歩き難かった。伊蔵はスタスタ歩くのが常なのでこれには少々閉口した。人のカタマリが横断歩道を向こうへ渡ろうと信号待ちするごとに、歩道の人の流れが滞ってしまうほど・・。歩道沿いの店先では様々なキャンペーンの呼び込みや宣伝をしているのでそれだけでも流れがノロノロになってしまう。天候の熱気と人の熱気でどうかなってしまいそうであった。

雑多な迷路のような街・秋葉原であったが歩いていろいろな店を見て廻るのは非常に面白い経験であった。しかし伊蔵がこの地を訪れた本当の理由は秋葉原を見るという一時だけではない。それは次回に話そう。<つづく>



東京下町見学(その6・神田/秋葉原へ)

柴又の下町見物を十分に満喫した伊蔵は京成金町線「柴又駅」の駅のホームへと戻って来た。次の目的地は東京都千代田区神田。なぜ『神田』に行くのかは追々話していこうと思う。とにかく神田方面へ鉄道を利用し移動しなくてはならない。

京成金町線「柴又駅」からまずひとつ北のある京成金町線の終着駅である「金町駅」へと移動する。この駅で改札を出てJR常磐線「金町駅」へと移動。駅舎から駅舎までを5分程の移動である。この駅から『北千住駅』まで移動する。

この北千住駅で降りたのは他でもない、2005年夏に開業した『首都圏新都市鉄道つくばエキスプレス線』に乗り替えする為である。
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JR常磐線の慢性化した混雑の緩和と沿線の開発を目的として造られ、東京都千代田区の「秋葉原駅」と茨城県つくば市の「つくば駅」を結ぶ区間58.3キロの新鉄道である。伊蔵は別に鉄道マニアではないので詳細な説明は避けるのでご了承頂きたい。
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真新しい北千住駅のコンコースは広くて清潔感が漂っていた。つくばエキスプレス線のホームは北千住駅の中でも最も高い部分にあり常磐線からの乗り替え移動に少しばかり時間がかかった。ホームで列車を待っていると程なくホームに列車が滑り込んで来た。ホームには『可動式ホーム柵』があり列車の扉が開くとこの柵の扉も同時に開く仕組みになっている。
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土曜日の為か車内はかなり空いていた。伊蔵の乗り込んだ車輛はロングシート専用車(通勤用)の車輛だったので多分『TX-1000系』であろう(ちなみにもうひとつの車輛はTX-2000系)。通勤用だけに対面ロングシートは勿論、シートとシートの間の通路部分の幅が広くなっているのが特徴的だった。車内のインテリアも清潔感があってよろしい。また列車自体の振動が非常に押さえられているのも感じた。(調べてみると振動の原因のレールの継ぎ目が少ないロングレールを使用しているとの事)振動が少ない事は通勤客には有り難い事だろう。この車輛はかなりスピードが出るという事も特筆すべき点である。性能的には160キロで走る事も可能らしい。全線が高架式、掘割または地下を通っている為、スピードも出せるというわけであろう。

列車は都心に入ると地下に入る。つくばエキスプレス線の『秋葉原駅』は事実、地下33メートルにホームがあり、地上に出るにはいくつものエスカレーターを乗り継がねばならない。
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エスカレーターも場所によっては長大で急角度のものがあり、後を振り返ってみるとかなり怖い感じがする。東京の地下世界にはいくつもの路線が入り組んで存在している為、新路線を建設するにはどうしても大深度にホームを造るしか仕方がないのであろう。
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とにかく『秋葉原』に到着した。今夜はこの近くに宿をとってあるし、時間もまだ早いのでゆっくり見学が可能だ。伊蔵は地下から秋葉原電気街の広がる地上へと移動したのであった。<つづく>

東京下町見学(その5・山本亭、そして柴又を後に)

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江戸川河川敷堤防から柴又の町を望むと眼下に『山本亭』がある。『寅さん記念館』を見学する為に敷地内を通って来た屋敷である。

この建造物はここ柴又ゆかりの『合資会社山本工場』というカメラ部品を製造していた企業の創立者である故山本栄之助氏が大正12年9月1日に起こった「関東大震災」後にこの柴又に移り住み以後四代にわたり邸宅として使用されていたものである。
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昭和63年に葛飾区が所有権を取得し平成3年から一般に公開された。木造瓦葺き二階建てのこの建造物は大正末期から昭和初期の建築様式によく見られた手法の『和洋折衷建築』であり随所にその特徴がみられる。純和風の広大な庭園と相まって見事な調和を保つもので東京都より歴史的建造物に選定されたばかりでなく、海外においても評価が高い。

1階は400平米、2階50平米あり、母屋の他に地下室、防空壕、土蔵、和洋折衷の長屋門も備えている。玄関の広い三和土(たたき)には人力車まで置いてあった。
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この当日はかなり気温が上がり、外はとても暑かったのだがこの『山本亭』内に一歩足を踏み込むと亭内の各部屋にいい風が吹き抜けてとても涼しかった。これは母屋の外周をグルリと取りまいている広い縁側と、縁側に沿って硝子戸が続いており壁というものが極端に少ない開放的な構造になっている事に起因する。
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つまりこの硝子戸や部屋内のふすま等を開け放つと全ての部屋に外気が吹き抜けるという事なのだ。また南面に位置する大庭園や北面に位置する中庭等に打ち水などを行えば気化熱によってまいた水が蒸発し涼しさが増すので外は暑くても部屋の中はクーラーが効いたように
ひんやり涼しくなるというわけである。

吉田兼好が著した随筆『徒然草(つれづれぐさ)』の第五十五段にこういう一文がある。

『家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり 深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。』

つまり日本古来からの建築には高温多湿という日本の気候、つまり蒸し暑い夏を凌ぎやすくする為の構造的工夫が成されていたという事である。昔の日本人には冬に部屋全体の空気を暖めるといった文化は無かった。自分の近くに囲炉裏やこたつ、火鉢等を置いて暖をとる事が多かったのである。であるからこういう建築物で過ごす冬はとても寒い。逆に現代の建築物は気密性や堅牢性、断熱性には優れてはいるものの、建物としての寿命は遠く木造建築物には及ばない。木造建築が優れている所は日本の高温多湿の気候に対して『木』そのものが呼吸している、いわゆる自然の『調温調節機能』が働いている為、建物自体の寿命が伸びるという点が挙げられる。まさに「先人の知恵」ってやつだ。

『山本亭』唯一の洋間には『鳳凰の間』という名称が付けられており、昭和初期の独特なデザインが見てとれる。窓にはステンドグラス、床材には寄木細工された材を使用、大理石を使ったマントルピースなど、部屋自体は狭いのだが和室ばかりの部屋の中にあって一種の『異質』を感じる空間であった。

『山本亭』で日本建築の素晴らしさというものを堪能した伊蔵は、柴又帝釈天方面へと来た道を引き返して行った。時刻はそろそろ昼であり、帝釈天参道にあった『高木屋老舗』さんで名物の『草だんご』を食する為に向かったのである。
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『高木屋老舗』さんでは「焼だんご」と「草だんご」を注文して食した。草だんごの上に乗るアンコは甘過ぎない上品な味だ。このアンコの材料は北海道十勝産の上質の小豆を使用しているという。だんご自体は筑波山麓の「よもぎ」の柔らかい新芽とコシヒカリを混ぜ合わせており、非常にモチモチとした触感が嬉しい逸品であった。
「焼だんご」のタレはシットリとしてこちらも甘過ぎない。だんごの方も焼き過ぎ無いように気を使って焼いているらしく表面には若干焦げた部分があるものの中はシットリと柔らかいといった絶妙なものであった。
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『高木屋老舗』さんの店内はとても涼しく、歩いて体温の上がった伊蔵にとっては心地良い空間であった。またお店の人達と映画『男はつらいよ』との繋がりも深く、様々な写真が店内に貼られていた。そういう場で食するだんごもなかなかオツなものだった。昼時になり帝釈天参道も観光客でごった返して来たようだ。何組もの観光客がこの『高木屋老舗』さんに訪れていた。
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そして伊蔵はまた『柴又駅』へと帰って来た。初めて訪れた柴又の町は十分に伊蔵の心を癒してくれた。寅さんという人物が居たからこそこの町の存在も知る事が出来たわけだし、寅さんには感謝しなければなるまい。ありがとう寅さん、そして柴又の下町・・・。またいつの日かこの地に足をのばしたい。そう思いながら伊蔵は次の目的地へと向かったのだった。
<つづく>

東京下町見学(その4・寅さん記念館/後編)

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引き続き『寅さん記念館』。
寅さんの商売は日本全国各地の神社の祭礼や縁日の参道や境内に出掛けていき、露店を開き旨い事を言いながら怪しい品物を売るといういわゆる『旅の露天商』、『テキヤ(的屋)』、『香具師(やし)』などと一般では呼ばれている稼業である。であるから一度柴又を出てしまうと何か月も帰って来ない。

『見上げたもんだよ屋根屋のふんどし、見下げて掘らせる井戸屋の若後家』
『結構毛だらけ猫灰だらけ、お尻の周りは糞だらけ』

こういう言葉を店先で叫び客の気を引き楽しませて、なんでもない品物を売る商売方法の事を『啖呵売(たんかばい)』という。現代でいうところの商品の使い方等を店頭で実演して客を引く『実演販売』などにも通じる。一種の芸である。 
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そういう稼業なので、おいちゃん、おばちゃんはじめ妹のさくらは、寅さんの現在居る場所や健康状態等を知る術がなかなか無い。家族にとってこれほどの心配事はない。しかし家族思いで心の優しい寅さんは家族の為に様々な手段を使い、連絡を送る。

勿論、寅さんは現代人のように携帯電話なんぞは持っていないので、もっとも有効な手段として『公衆電話』を使用し柴又の家と連絡をとる。旅先の鄙びた駄菓子屋の店先にあるピンク色の電話や赤電話などから連絡をとるシーンは映画の中でもよく見かける。次の手段としては手紙、いわゆる『旅の便り』っていうやつである。悪筆な文字だが何かしら暖かみのある内容の手紙を柴又に送り、家族の者達をホッとさせる。正月に柴又に帰れなかった時はこの手紙は往々にして『年賀状』に変化するのだが(笑)
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そういった寅さんの手紙やなぜか『寅さんの履歴書』なるものまで展示されていた。中でも面白い手紙というのが、1989年公開の『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(初の海外ロケ:オーストリア/ウィーン・マドンナ役:竹下景子)でウィーンに訪れていた寅さんが柴又に連絡を取る為に空港のトイレのトイレットペーパーを手紙の代用にし、日本に帰国する日本人観光客に託した手紙(笑)
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『さくら心配するな おれは生きている 寅』

あなたはサイコーです!寅さん!非常に簡潔な文章だが寅さんらしさが出ていてイイ手紙?である。こういった手紙を旅先から送る粋な人は確実に現代では減っている。パソコンや携帯電話を利用した電子メールは非常に便利なツールであるが、寅さんの手紙のような「暖かみ」というものは無い。手書きの手紙を見直してもいいのではないかと伊蔵は思った。
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こういった手紙のほか、寅さんの旅の持物についても展示がなされていた。例の寅さんがいつも持ち歩いている『トランク』の中身だ。
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こちらの持物についても必要最低限のものしか入っていない(笑)寅さんはある意味、ホンモノのトラベラーなのかもしれない。旅馴れると必然的に旅の持物も少なくなるものだとよく言われる事だがこれを見て何となく納得した伊蔵であった。

こういった展示物がここ柴又の『寅さん記念館』には沢山残されていた。長野県の小諸にも同じような『寅さん記念館』があるのでそちらの方も一度訪れて見たいと思う。(以前に小諸を訪れた時にはまだ建設途中だったのだ)

寅さん記念館の中庭(江戸川堤防をくり抜いた半地下の場所)に出ると『寅さんグッズ』を売る店があった。中に入ってみるとTシャツ、団扇、雪駄、手拭い、ビデオ等様々なグッズが販売されていた。中庭には一基のエレベーターがあり、記念館上部、つまり江戸川堤防上まで上がれる様になっている。エレベーターに乗り堤防上に伊蔵は降り立った。
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そこには素晴らしい江戸川河川敷の風景が広がっていた。川向こうはすでに千葉県松戸市となる。この記念館から500メートル程の場所には江戸川を渡し船で渡る有名な『矢切の渡し(やぎりのわたし)』がある。東京都内唯一の渡し場として、また細川たかしの同名の歌謡曲のヒットでよく知られている場所である。映画『男はつらいよ』の中でもよく登場する渡し場だ。
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この『矢切の渡し』は江戸時代、幕府によって箱根の関所と同様に厳しい関所を設けていたのだが、付近の農民にのみ渡し船を許していたという。運行時には旗が掲げられ、片道100円で現在は渡して貰える。午前9時半から日没までの運行だそうだ。観光客は結構乗るみたいだが川向こうの千葉県側に渡っても何も無い為、すぐに引き返して来る人が多いという。
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こうして伊蔵の『寅さん記念館』の見学は終了した。以前から訪れてみたい場所であっただけに実際に見学出来た事は非常に嬉しかった。ますます伊蔵は寅さんファンになってしまった(笑)そしていつまでも寅さんが日本人の心の中から消えてしまわない様に願わざるをえない伊蔵であった。<つづく>

東京下町見学(その4・寅さん記念館/中編)

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『私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します。』

あまりにも有名な寅さんの台詞だ。寅さん自身も非常に魅力的なキャラクターであるが、その周りを取りまく人々も負けず劣らずイイ味を醸し出している。何か月も帰らない兄の事をいつも気使っていつも心配している妹のさくら、『今頃何してんだか・・』と言いつつ寅さんのフラフラした生活に対し心良く思っていないおいちゃん、おばちゃんも寅さんが柴又に帰って来た時には温かく家に迎え入れ、寅さんの旅先での思い出話に耳を傾ける。

さくらの夫、ヒロシは真面目な性格だけに義理の兄、寅さんの自由な人生をどこか羨ましく思っているフシがあり寅さんの考え方を全部は認めないが、共感出来る部分や自分にはしたくても出来ないような事は寅さんを頼るような所がある。ヒロシの息子、満夫も素直に自分の考えに共感してくれる伯父に対し好意を持っている。

また、寅さんと旅先で知り合った人達も寅さん独特のユニークな雰囲気に飲まれてしまい、すぐに仲良くなってしまう。ここまで書くととても寅さんが自分自身の事を評して

『いつまでたっても駄目なヤクザな兄貴』

というのはとんでもない間違いのように思う。全ての人々が寅さんに好意を持っているわけでは無いのは事実だが、寅さんほど人として真っ直ぐに素直に生きている人は数少ない。それほど現代社会は素直に真っ直ぐ生きる事が困難な世の中であり、寅さんのような生き方をすれば、世の中からは排除されかねないし第一損だし、妙に世間から浮いた人間として見られてしまう。本当は誰もが寅さんの様な生き方がしたいという願望はあるのだろう。しかししたくても出来ない。だから皆の願望が随所に盛り込まれている映画『男はつらいよ』のヒットは必然的なものだったといえるだろう。
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少々文章が長くなってしまった。引続き『寅さん記念館』の話に戻ろう。
寅さんの周りを取りまく人々の紹介や、マドンナとの逸話や名場面などを鑑賞出来るコーナーや寅さんと記念撮影出来るコーナーもあり、どれも伊蔵にとっては楽しめる内容ばかり(笑)
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下町の風情があふれる昭和30年代の柴又帝釈天参道の町並みを再現した精巧なミニチュア模型の展示コーナーは圧巻だった。細かい部分まで再現された模型は見ているだけで楽しい。伊蔵の子供の頃にはこういう商店街が沢山あったが今では本当に少なくなってしまったし、残っていたとしてもどこかしら観光地化されてしまっているところが多い。残念な事だ。
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シリーズ48作もあると映画ポスターも様々な種類があり、まるで画廊に訪れたのかと思う程。しかし寅さん、歳をとらない。どのポスターを見てもイイ顔をしている。ポスターもいい物だが伊蔵としては昔ながらの手描きの映画看板等も展示して欲しかったところだが、なかなかこういうものは残っていないのだろう。

とにかく『寅さん記念館』内は昭和の匂いが色濃く立ち込めているようであった。<つづく>

東京下町見学(その4・寅さん記念館/前編)

帝釈天を後にした伊蔵はいよいよ『葛飾柴又寅さん記念館』へと向かう。帝釈天境内から二天門を出て左手に向かいすぐまた左へ直角に折れる。帝釈天境内敷地の南側に沿って細い道が江戸川堤防の手前まで続く。数百メートルも進むとちょっと味のある趣きの木造の建物が正面に見えて来る。
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『山本亭』である。『山本亭』については後ほど語るのでお楽しみに。この『山本亭』の門をくぐり、邸内敷地を横切ると江戸川堤防の際に出る。この一帯は『柴又公園』として整備されている。
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土手の中をくり抜いた敷地に『寅さん記念館』はある。上の画像の土手の上の建造物は寅さん記念館から土手の上に移動出来るエレベーターと休憩所を兼ねた建物なのである。
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おお!これが『寅さん記念館』の入り口かっ!伊蔵は少々興奮気味にチケットを購入する為自販機前へ。先程通って来た『山本邸』も入館出来るセット券を購入。550円也。
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入館口には寅さん記念館の『館』の文字看板を逆さまに貼付けようとしている寅さんのオブジェが!「おいおい寅さんそれじゃ逆だよ・・」と、呼び掛けようものなら

『それを言っちゃあ おしまいよぉ!』

なんて言われてしまいそうである(笑)
館内に入るとすぐ、撮影スタッフや監督、照明さん、大道具さん、衣装さん、メイクさん等の大型写真パネルが展示され撮影時の現場エピソードなどが説明付きで紹介されていた。
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次に展示されていたのが『くるまや』のセット。これは実際に大船撮影所で使用されていた撮影用セット。ホンモノだ。大船撮影所閉鎖とともにこの記念館に永久的に保存される事になった。実際の撮影ではこのセット、半月位かかって組み立てて撮影に45日程使われ、撮影が終われば解体されて倉庫にしまわれていたという。こういう作業を28年間毎回続けていたというから凄い事だ。
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伊蔵はこのセットを見て『あぁこんな家に帰って来たい』なんて思った。何だかお婆ちゃんの家に帰って来たようなそんな感じがした。タイル張りの流し台なんてとても懐かしい。二階へと続く狭い階段もあった。この階段の下でくるまやの裏手にある印刷会社のタコ社長と寅さんがよく口喧嘩していたっけ・・なんて事を考えながらセットを見てまわった伊蔵であった。
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茶の間にはスクリーンがあり、映画『男はつらいよ』が上映されていた。そのスクリーンに映っているくるまやがこの目の前のセットを使用して撮影された事を思うと、なかなか感慨深いものがあった。<中編につづく>

東京下町見学(その3・柴又帝釈天)

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映画「男はつらいよ」で何度も登場する『柴又帝釈天』。正式な寺名は『経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)』といい、江戸寛永年間(1629)に開山された日蓮宗のお寺である。日蓮聖人が刻んだといわれる帝釈天の板本尊が200年前の本堂修理の際に棟上から発見された。本尊が出現したその日が安永8年庚申(こうしん)の日であったため「庚申」を縁日と定めたという。この縁日には多くの参拝者で賑わうという。厄除け、延寿、商売繁盛に霊験あらたかということだ。
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『帝釈天』というのはインドのバラモン教、ヒンドゥー教でいう武神『インドラ』という神様と同一神。『梵天(ぼんてん)』と並び、仏教の世界ではこの二人の神様は二大護法神となっている。
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参道を真っ直ぐに進んで来た伊蔵の目に最初に飛び込んで来るのは帝釈天の『二天門』。総欅造りでなかなかに立派な建築物だ。
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しかし比較的新しい建物であり明治29年に造られた。伊蔵が目を見張ったのは門の木彫りの彫刻の素晴らしさだ。木材の木目も彫刻にうまくマッチしていて美しい。仏典の中から題材を採っているらしく彫刻を見ているとストーリーが何となくわかって面白い。
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二天門をくぐると境内が広がり、正面に『帝釈堂』が見える。こちらも総欅造りの建築物だ。祀られる本像は日蓮が刻んだ『板本尊』。この堂の周りにも立派な彫刻が施されており十二支の彫刻や法華経説話を題材に思わず見入ってしまうほど実に細かい彫刻が彫られている。こういった彫刻は『説話彫刻』と呼ばれているそうだ。堂の周りの彫刻は有料で見学が可能だ。
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境内の端には大鐘楼がある。こちらは昭和30年完成の総欅造りの建築。高さ15メートルもあり、凝った作りの立派な鐘楼である。残念ながら鐘の音は聞く事が出来なかったが、きっと趣きのある音であろう。
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柴又帝釈天は小じんまりしたお寺ではあったが寅さんとともに柴又のシンボルとなっている。お寺の紹介をしてくれる愉快なガイドのお爺さんもいた。とにかく木の彫刻が立派な寺であった。これだけを見るだけでも一見の価値ありだと思う。

次に伊蔵が向かった先は『葛飾柴又寅さん記念館』である。<つづく>

東京下町見物(その2・柴又帝釈天参道)

東京都葛飾区柴又は東京都23区の中でも一番東部に位置し、江戸川を挟んで千葉県と隣り合っている。柴又駅に降り立った伊蔵は江戸川方面に向かって延びている『帝釈天参道』を進んでいった。