週末のご馳走(その3・カキフライと明宝トマトケチャップ)

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次の品は『カキフライ』。フライの上に塗られているのは『明宝トマトケチャップ』である。このトマトケチャップは岐阜県郡上市明宝村の特産品。
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明宝村産のトマトである『桃太郎』を使用しており、完熟したトマトの洗浄から瓶詰めまで一貫して手作業で生産しているケチャップなのである。しかも余計な添加物は一切使用していないのでトマトの純粋な味が楽しめるのだ。ケチャップだけを食べても実際美味しい。
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このケチャップとカキフライとの組み合わせは最強だ!カキフライといえばタルタルソースのイメージが強く伊蔵も好きだが、この明宝トマトケチャップも非常に合う。トマトの深い味が出ているケチャップの酸味がカキと合うからだろう。
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“海の産物”と“山の産物”が絶妙に合致し伊蔵の舌を唸らせたのだった。<完>

週末のご馳走(その2)

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次の品は『小女子(コオナゴ)』小さいオナゴの事では無く(笑)スズキ目イカナゴ科の魚の事である。これを大根おろしとともに頂く。
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体長5〜6センチ位の魚で小女子としては大振りの魚だが頭から尻尾までそのまま骨まで食べられる。咀嚼していると魚の旨味がしみ出してきて美味しい。カルシウムも満載だ!このように生で頂くのもいいが天麩羅にしても合うかもしれないなと伊蔵は思った。
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次も不思議な海の生き物『海胆(ウニ)』。takeさんの店の本日のメニューは『海』がテーマのようだ。ウニにしろナマコにしろ姿形が美しく無いものを最初に食べようと思った人はよほど勇気がいったのではないか・・。しかし不思議な事に醜いものは美味しい物が多い。頂いたウニもトロリとしてとても甘く果実のような味がした。アミノ酸の一種であるタウリンを豊富に含んでいるウニは貧血予防、心臓の働きを強くする、血圧を下げる、不整脈の改善、動脈硬化の予防、肝臓機能の強化などの効果がある。
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贅沢な品が続くが『河豚の白子と河豚の身』である。河豚(ふぐ)はなぜ河の豚と書くのか分からなかったが最近テレビを見ていてその意味が分かった。河豚が威嚇行動を起こすとプ〜ッと膨らむがこのときブーブーと豚の様に鳴くから河豚と書くのだそうだ(笑)
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白子と身にパパっと塩を降りオーブンで少し熱を加えた一品。こいつは旨い!身の方はホクホク、白子は程よい塩味にトロトロとしたクリーミーさがタマラナイ。う〜ん贅沢だ・・・。平日の晩の食事はほとんど味気の無いコンビニ弁当の伊蔵。これくらいの贅沢が週に一度なくては毎日を頑張れないのである。
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お次も伊蔵の好物、『焼き鳥』だ!皮と砂肝である。この辺になると伊蔵はすでにビールから焼酎に切り替えている。下の画像は撮影前に皮の方を先に少し食べてしまった為、串の先が見えてしまっている所はお許し願いたい(笑)皮のジューシーさと砂肝の歯応えを楽しみながら伊蔵はチビチビと焼酎を飲む・・至福の一時だ。一週間の仕事の疲れもこれだけで癒されてしまうから不思議なものである。<つづく>

週末のご馳走(その1・海鼠オペ)

一週間に一度は美味しい物を食べたい伊蔵は今週末もtakeさんの店へ出掛けた。土曜日の今夜一体何を彼は食べさせてくれるのだろうか。いつもの様に入口の木戸をコンコン・・とノックすると木戸のスライド小窓が開きtakeさんが顔を出す。彼は用心深いのである(笑)

『伊蔵君ではないか!!』

そう言ってtakeさんはいつも店内へと導いてくれる。そして楽しみにしていた今夜のメニューをtakeさんが紹介してくれた。それは・・・『海鼠(ナマコ)』であった。
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すでに料理されたナマコは何度もtakeさんの店で目にしていたが生きたナマコを店内で見るのは初めてであった。このナマコは体表が赤褐色をしているもので『赤ナマコ』と呼ばれている。しかし実に不思議な生き物である。身体をツンツン突ついてみるとキュ〜っと収縮し固くなる(笑)タッパーの中でそいつはコロンと転がっていた。この新鮮なナマコをtakeさんは掴み上げ“オペ”を開始し始めた!!
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包丁を入れられた赤ナマコ氏はさらに身を収縮し防御の体型をとったがtakeさんには叶わない。哀れにも赤ナマコ氏の身体は両断された。しかし身体を二つにされながらもナマコの生命力は強くてしばらく動いていた。
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takeさんは二つになったナマコの内部に手を突込み内臓を摘出した。ナマコの内臓は非常に単純な構造をしていた。ナマコは刺激を受けたり危険を感じるとこの内臓を威嚇行為として吐き出して逃げる。その後内臓は簡単に再生するのだ。特に腸を塩辛にしたものは『このわた』と呼ばれ珍味として知られている。takeさんは腸を水でよく洗って食べさせてくれた。それはツルっとしていてどことなくフルーティーな味わいがした。
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内臓を残らず除去したナマコは皮だけの状態で縮こまっていた。つまりナマコの身体の構造は内臓の他は大部分が分厚い皮なのである。しかもこの皮にはコラーゲンがたっぷりと含まれているのだ。
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takeさんは今捌いた新鮮なナマコの身をブツ切りにしてポン酢のみの味付けで小皿に盛ってくれた。それを早速頂く事にする。口に入れてまず驚くのが非常に歯応えがいい食感。先程まで柔らかかったナマコがこれほどコリコリとした食感に変化するのが不思議だ。身を噛み切るにも苦労する位の弾力だ。顎の力と歯が弱い人にはちょっと無理であろう。

味付けはポン酢のみであったが身が海水を十分に含んでいる為、味には不足は全くない。さっぱりした潮の香りがする一品と言えよう。takeさんの料理はまだまだつづく。

近江国・長浜への旅(その15・最終回)

伊蔵の長浜の旅もいよいよ終わりに近くなって来た。最後の最後まで悪天候は回復する事が無くいろいろな場所を見て回る事が十分に出来ずに残念な旅であったが、次回ここに訪れる為の下調べの旅と考えれば大成功といった感じだろう。

長浜には古い町並が保存されているだけでなく、様々な飲食店も沢山あるのでまた是非訪れて見たい。その中で今回行列の出来る飲食店を見つけた。JR長浜駅前から徒歩数分の駅前通りに面した場所にその店はある。親子丼が有名な『鳥喜多(とりきた)』さん。
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こちらの『鳥喜多』さんの創業は1931年(昭和6年)。老舗の親子丼の店である。悪天候にも関らず昼前に長浜の町に到着した時にすでに店の前には傘を差したお客さんで行列となっていた。『鳥喜多』さんの親子丼の人気の秘密は毎朝時間をかけて煮込む鳥ガラだしと柔らかく煮た鶏肉を玉子でとじてさらに生卵を乗せるというスタイルが受けているらしい。親子丼のお味も素朴でなかなか旨いとの事。
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ここ長浜では『親子丼』といえば『鳥喜多』『鳥喜多』といえば『親子丼』と言われるほどの存在だという。次回は是非立寄りたいお店だ。

さらに長浜駅周辺を歩いていた伊蔵はまたしても気になる飲食店を発見した。先程の『鳥喜多』さんからさほど離れていない場所にあるこちらの飲食店・・・
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(クリックで画像拡大)
その名も『とらや食堂』!!行列の出来るお店も気になるが伊蔵的にこっちの店の方がかなり気になってしまった(笑)まさかこの長浜に“とらや”があるとは思わなかった。大衆食堂独自の雰囲気というものが濃厚に漂っていた。店先に掲げられたお品書きを見てみると実にバリエーションが多く、ますます気になる・・・(笑)かなり古くからこの長浜の町に店を出しているのだろう。きっと地元の根強い常連のお客さんがいるに違いない。大看板がまたイイ味を出している。

『みなみな様 小さな食堂 大きく感謝』

実に謙虚だ。大衆食堂たるものこうでなくてはならない。次回必ずこの『とらや食堂』に訪れてみようと思う。

そして伊蔵は『JR長浜駅』へと戻って来た。こうして近江国・長浜の旅は終わりを告げた。日帰りの旅ではあったが得るものは沢山あった。今度は好天の日に訪れたいと思う。<完>

近江国・長浜への旅(その14・近江長浜ラーメン)

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伊蔵はタクシーで再び長浜市街へと戻り最後に『北国街道』をもう少し歩いてみようと思った。まだ昼食を食べていなかった事もあり、この町のどこかで食してから今回の長浜の旅を締めくくろうと考えたからである。
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旅に出た時の伊蔵の癖でその土地のラーメンが食べてみたくなった。この長浜では『長浜ラーメン』だろう。伊蔵はつい最近までこの『長浜らーめん』といわれるものはこの滋賀県の“長浜”のラーメンの事だと思っていた。

本来の『長浜ラーメン』とは九州福岡県の長浜を指す。『博多ラーメン』と言った方が東海地方に住む人達には分かりやすい。東海地方に住む人達が長浜という地名から連想するのは地域的に滋賀県の長浜市の方が馴染みがあるのでどうしてもそこのラーメンかと勘違いしてしまうのである。

福岡におけるラーメンの歴史は昭和15年頃にはじまるといわれる。博多区に『三馬路』『浜荘』という二軒の屋台が出来た。昭和30年代に入るとそれまで福岡の大浜にあった魚市場が“長浜”へ移転した事がきっかけで魚市場で働く労働者相手にラーメン屋台が建ち並ぶようになった。これが『長浜ラーメン』の始まりなのだという。魚市場で忙しく働く労働者達に出来るだけスピーディーに安くて美味しいラーメンを食べてもらおうとローコストの豚骨スープと麺は茹で時間を短縮する為どんどん細くなっていったという。こういった歴史から博多のラーメンは豚骨スープに極細麺という独特のスタイルが完成したのだ。
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本場の長浜ラーメンの話はこの辺にして、本編に話を戻そう。北国街道周辺を伊蔵はラーメン屋を求めて歩き回っていた。天候は相変わらず悪く気温も下がって来ているようでとても身体が冷える。早く温かいラーメンを頂きたい・・・・。そう思いながら歩いていると、あったあった!!
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あくまでも近江(滋賀県)の『長浜ラーメン』だが(笑)
このお店は『長浜ラーメン 北国街道店』という。もう一軒この地区にロマネスク店という店があるチェーン店である。雪も降り始め身体が冷えきっていた伊蔵はそそくさと店内へ。
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昼食にしては遅過ぎる時間帯だった為か店内は伊蔵の貸切状態(笑)小綺麗過ぎる店内に味の方は何だか期待は出来ないような気配ではあった。お店はおばさん二人が切盛りしているようであった。メニューを見てみると基本的に九州の豚骨ラーメンと変わりが無いといった感じ。伊蔵は『ネギチャーシュー大盛ラーメン』850円也を注文した。
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その品がやって来た!なかなか見た目の迫力のある一品であった(笑)白いドンブリの周囲にいっぱいに配されたチャーシュー、九州ラーメンの特徴である白濁した豚骨スープにネギを山盛りにして紅生姜、白胡麻をまぶした姿を見ていると伊蔵の腹は思わず鳴ってしまった(笑)早速頂く事にする。豚骨スープはそれなりに濁っていた為、濃い味がするのかと思ったのだが非常にあっさりとしており豚骨独特の匂いもほとんど無い。もう少しコッテリ感があってもいいような感じだった。麺の方もやはり九州ラーメンの特徴を踏襲していて極細の麺であった。食べた感想はそれなりに腹も膨れ美味しかったが、印象に残るようなパンチ力に欠けていたともいえるし、これが“あっさり感”だといえばそれまでなので、伊蔵の味覚には合わなかったというところか・・・。<つづく>

近江国・長浜への旅(その13・鉄砲の里)

『国友』の集落の中へタクシーは進んだ。遠くから見るこの集落は普通の田舎にしか見え無かったが集落の中へ入って見ると随分立派な構えの木造の家々が多い事に気がつく。多分ここに住む人のほとんどは国友姓を名乗っているいるのだろう。時の権力者の保護を受けていただけにこの立派な家々が建ち並ぶ風景には何となく納得が出来た。

しばらくその様な風景を眺めながらタクシーはなおも進み、丁度集落の中心部辺りで停車した。そこが『国友鉄砲の里資料館』であった。
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集落の古い家々との調和を保つ為か資料館はそれらしい外観の佇まいであった。資料館前の駐車場は一台の車もなく思った通り閑散としていた。この辺りでは帰りのタクシーを捉まえる事が出来ないと思った伊蔵は運転手に見学が終るまで待っていてもらえるか聞いてみると心良く引き受けてくれた。

伊蔵は資料館の扉をくぐったのだが人の気配がない・・・。ウロウロしていると資料館員が現れやっと入館料300円を払い終えた。見学者も無く資料館は伊蔵の貸切状態のようだ。

『まずはこちらの部屋でご説明させて頂きますのでどうぞ』

伊蔵は館員さんに誘導されある一室へと通された。前面に大きなスクリーンがあり映像によって鉄砲についての説明が為されるようだ。伊蔵が椅子に座ると辺りが暗くなり映像がスタートした。映像では鉄砲の伝来から国友での鉄砲製造技術、江戸時代、太平の世になってからの国友の紹介等がアニメーションを交えながら分かりやすく説明された。
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その説明案内をしてくれるアニメキャラクターのネーミングが“国ちゃん”(笑)『国友』の地名から取られたのだろう。“国ちゃん”は小さなUFOに乗って伊蔵に鉄砲について色々な説明や案内をしてくれた。
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優れた鍛冶職人が沢山居た『国友』では種子島に1543年(天文12年)に鉄砲が伝来し、翌年には鉄砲製造を始めた。銃身を造る『鍛治師』、銃床を造る『台師』、引金や火ばさみ等のカラクリ部分を造る『金具師』による分業制で一挺の鉄砲を製造していた。またその技術の継承には厳しい掟や組織制度が存在し、年寄・年寄脇・平鍛冶などの階級に分かれていたという。

資料館二階には数々の国友鉄砲の展示や歴史、銃身の製造方法などを学ぶ事が出来る様になっていた。小筒、中筒、大筒の他に脇差鉄砲(形は刀の脇差だが実は小型の鉄砲)という変わり種のものまである。また火薬袋や銃弾である鉛の玉を造る為の道具などの展示も豊富だ。『国友鉄砲にふれてみよう』というコーナーもあり、火縄銃(模造)を手に取って構える事も出来る。
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伊蔵も早速『火縄銃』を構えてみた。持ってみた感じはかなりズッシリと重い。次に狙いを付けて構えてみると思っていた以上に非常に狙い難い事が分かった。これは現代のライフル銃のように“肩当て”部分が火縄銃には無い為である。火縄銃の手元はバナナ状に曲がっているだけなので手で支えて狙いを定めるしかない。これだけ重い銃を手だけで支えて的に当てるのは至難の業だろう。普通の小筒でさえこんなに重いのに一体大筒だとどれくらいの重量があるのだろうか・・。

銃身の製造法についても詳しく各工程途中の材料が順番に並べられていて分かりやすかった。その製造法はまず短冊状の真金を心棒の周りに巻き付けた後(荒巻)それを継ぎ目の無くなるまで鍛えて更にその上に鋼をリボンを巻き付ける様に巻き(葛巻/巻張り工法でこれを施す事により銃身の強度は増す)これも継ぎ目の無くなるまで鍛えて銃身の形を八角型に整えていき銃身の歪みも調整する。最後に銃身の尾部に螺子(ネジ)を切って塞ぎ火皿、目当て(今でいう照準器)を付けて完成という非常に手間の掛かる仕事なのである。

特に螺子(ネジ)を切る技術というモノは日本の技術には当時無く国産化するにあたり最大の難関であった。銃身の尾部をそのまま塞いだだけでは火薬の発火の際の爆発力で簡単に吹き飛んでしまう為、これを螺子で塞ぐ事は必須の技術であり作業だった訳である。現代でこそこの螺子は旋盤やタップ、バイスさえあれば誰でも簡単に造れてしまうが、当時はそんな便利な工具は無い。どうしたか?雄ネジは丸い鉄棒に丹念にタガネでネジ山を叩いて造り、雌ネジはまず銃身を熱しておき柔らかくしておき先程の雄ネジをはめ込んでは鍛え、また回しては抜くという地道な作業を繰り換えしていたのである・・。雄ネジは比較的簡単に造れたが雌ネジの造り方が分からず苦労していた。

これを解決した人物がこの国友村にいた『次郎助』という鍛治師である。この次郎助の発想した螺子の造り方については『国友鉄砲の里資料館』の入口脇にある作家 故・司馬遼太郎の石碑(彼の著書である「街道をゆく」の一説)に詳しく刻まれている。(クリックにて拡大)
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これを読んでも“ひらめきと発想”というのは何処に転がっているのかわからない事がいえる。普段の何でも無いような事が革新的な技術のヒントとなるような事があるという良い例であろう。『国友鉄砲の里資料館』は規模こそ小さいが大いなる先人の技術と発想を学ぶ事が出来るいい資料館である。あまり知られていないのが残念である。

伊蔵は駐車場で待ってくれていたタクシーの運転手にお礼を言い車内に乗り込み『国友』の集落を後にした。集落内には数々の名所もあり、ゆっくり歩いて見学したかったのだが悪天候で今回は残念ながら見る事は叶わなかった。また是非訪れたいと思う。<つづく>

近江国・長浜への旅(その12・国友町へ)

滋賀県長浜市国友町。この場所が室町末期から江戸時代初期にかけて堺・根来と並び“鉄砲”の生産地であった事はすでに述べた。種子島に鉄砲が伝来してから足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉とこの小さな集落は保護を受け、徳川家康はこの地を『天領(幕府直轄地)』とした。国友鉄砲鍛冶は幕府の“御用鍛冶”となるまでになったのである。最盛期には70余軒の鍛冶屋と500人を越す職人が居たという。
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国友町は長浜市街の中心部からは東北方向、姉川の流れのすぐ近くにある小さな集落である。伊蔵は最初この国友まで歩いて行こうかと考えていたのだが、この悪天候では歩く気になれずとりあえずJR長浜駅前のロータリーまで歩き、そこでタクシーを捉まえ国友へと向ったのだった。
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国友の集落の中に『国友鉄砲の里資料館』という施設がある事は長浜の旅をするにあたり、伊蔵は予め調べて知っていた。施設の立地場所が市街地から離れている事と交通の便が悪い事もあって大挙して観光客が訪れる事は無く、よっぽどの歴史好きか銃器マニアしか訪れないかもしれない・・・。

タクシーに乗り込んだ伊蔵は運転手さんに、
『国友にある鉄砲資料館へお願いします。』と行き先を告げた。

タクシーは駅前のロータリーを回って市街地を通過して一旦国道8号線へと出て北上した。国道沿いには様々な店が立ち並んでいたが少し裏へ入ると一面田んぼという風景であった。本当にこの様な場所の近くに鉄砲の一大生産地があったのだろうか・・とちょっと首をひねってしまいそうな心境に伊蔵は陥りそうだった。しばらく国道を北上していたタクシーは左に大きくカーブする辺りで進路を東側(右折)に変え田んぼの中の一本道を進み始めた。

さらに左折し北へ進路を変えると前方に田んぼの海の中にポツンと浮かぶ島の様なひとつの集落が見え始めた。『あれが国友の集落ですか?』タクシー運転手に聞いてみると、

『ええそうですよ。』

伊蔵の目には田舎によく見る様なただの集落にしか見え無かった。タクシーは静かに『国友』の集落の中へ進んで行ったのだった。<つづく>

近江国・長浜への旅(その11・北国街道/後編)

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『北国街道』から一旦東側に逸れて『大手門通り』に伊蔵は入って行った。アーケード西門から中に入った訳だがここで気になるお店が・・・

『茂美志屋(もみじや)』さんというお店である。長浜名物“のっぺいうどん”というものを食べさせてくれる店らしい。
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“のっぺいうどん”とはどんなうどんなのだろうかとかなり気になったのだがまだいろいろ長浜の町を見てまわる予定があり、今回は食べず仕舞いになってしまった。どうやら「あんかけうどん」に近い形の出汁にトロみのあるうどんであるらしい。寒い冬の時期にはこういったうどんはアツアツのままの状態が長く持続する為に美味しく頂ける事だろう。『茂美志屋』さんは創業大正元年。かなり歴史がある老舗で、お店の構えも旅人がヒョイと立寄りたくなる独特の雰囲気をもっている。観光客もかなり入っているようであった。

『大手門通り』には全国のアーケード街と同じ様に実に沢山のお店が立ち並んでおり、歩いて見るだけでも面白い。中でも異色だったのが、
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お店というよりは博物館だが・・『海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館』というもの。この博物館には以前に伊蔵の友人である“草加君”が琵琶湖周辺をバイクでツーリングした際に立ち寄っており、自らのネット上の日記でこの博物館について画像付きで書かれていた事があった。この博物館の詳しい所在地については伊蔵は分からなかったのだが今回の旅で偶然に見つけたという訳である。ミュージアム入口には『北斗の拳』の主人公ケンシロウの等身大フィギュアと・・・
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なぜか『大魔人』がっ!!(笑)観光客にはケンシロウよりこちらの大魔人の方が人気で家族連れやカップルがしきりに大魔人との記念撮影に熱中していた。北斗神拳伝承者のケンシロウもこうなっては形無しである・・

博物館内を少し覗いてみると実に様々なサイズの精巧に造り込まれたフィギュアが多数並んでいた。日本のフィギュア熱というか食玩というものは本当に凄い。もやは職人技ともいえるものが実に多い。こういった面でも日本人の手先の器用さとモノを見る細かな観察力というものは世界に誇るべき技だと改めて感ずる事が出来る。
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『大手門通り』沿いには長浜の“曳山まつり”についての全てが分かる『曳山博物館』もある。曳山とは祇園祭や高山祭でいうところの山車と同じようなもので変わっているのは曳山ひとつひとつが小型の移動式舞台の様になっており子供が歌舞伎を演じるところ。
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以前に伊蔵が自転車で関ヶ原に出掛けた際に帰り道にたまたま垂井の宿場で見かけた祭に非常によく似ている。長浜曳山まつりは豊臣秀吉が長浜城主だった頃から始まったという歴史を持つ有名な祭である。
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その『曳山博物館』の脇を流れている川は『米川』という。長浜の町にはこういった小さな川が縦横に流れていて城下町の名残りともいえる雰囲気が残っている。
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伊蔵はひとまず『北国街道』と町の見学を中断して、次なる目的地である昔の鉄砲鍛冶集落『国友』へ向かう事にした。<つづく>

近江国・長浜への旅(その10・北国街道/前編)

『長浜鉄道スクエア』を後にした伊蔵が向かう先は『北国街道(ほっこくかいどう)』。越前・越中・越後へと続く昔の街道である。この長浜の町はこの街道沿いに位置しているのである。早速伊蔵はその北国街道へ向かう事にしたのだが・・その時!悲劇がっ!?

『長浜鉄道スクエア』の施設外に傘をさしつつ出たのだが突然の突風が吹き伊蔵の傘が一瞬にして“骨折”してしまい見事に破壊されてしまったのである。天候は相変わらず悪く、強風と冷たい霰が降っていた。ただ雨では無い為にびしょ濡れになる事はないので、そのまま歩く事にした。

北陸本線の踏切を東へ向かって線路を跨ぎ、すぐを北へ向かうとJR長浜駅のロータリーに出た。幸い寒い地域という事で駅前には歩道の上に屋根がついており濡れる事は無かった。駅前からさらに東へと続く道を進んで行くと南北へ延びる『北国街道』にぶつかった。
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この長浜の町を南北につらぬく『北国街道』は中山道鳥居本宿を起点として近江と北陸をつなぐ重要な街道であった。また江戸日本橋を起点とした『五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)』に次ぐ街道で多くの武将や旅人などで大いに賑わったという。特に長浜城の大手門から岐阜の谷汲山華厳寺へと通じる『谷汲街道』とこの『北国街道』との交差点付近は最も栄えたという。
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伊蔵はその『北国街道』の筋へと入ってみた。多分に観光地化され小綺麗過ぎる感じではあったが確かに古くからの建物が残っていて昔の面影というものは感じられた。
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土蔵や“うだつ”のある民家、紅殻格子(べんがらごうし)や古い庄屋などが立ち並んでいてなかなか雰囲気がよろしい。街道の向こうから金田一耕助が下駄の音を鳴らしながら走って現れても決して可笑しくはない感じである(笑)この悪天候のせいか観光客は少なく感じたが普段はどうなのだろうか・・。伊蔵は長浜の町を時間をかけて見るのは今回が初めてだったので、こういう良い場所があるとは今まで知らなかった。
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街道筋をそのまま北へと歩いて行くと辻に一際目を引く建物が見えて来た。『黒壁ガラス館』の建物だ。この建築物の前身は明治33年に建てられた『第百三十銀行支店』である。洋風土蔵造りに黒漆喰の壁という和洋折衷の様相から“黒壁銀行”と親しまれていたのだという。平成元年に建物の原形復旧が行なわれて、現在はガラス芸術を展示するギャラリー、ガラス工房、ガラス製品の販売などを行なっている施設となっている。

伊蔵もこの『黒壁ガラス館』に入ってみたが施設内は悪天候を避ける観光客でごった返していて人混みが苦手な伊蔵はすぐに出て来てしまった(笑)

この『黒壁ガラス館』の前の東西にのびている通りが『大手門通り』である。
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幸いにもこの『大手門通り』はアーケード街となっており濡れる心配が無い為、伊蔵はすぐにこのアーケード内へと入って行ったのだった。<つづく>

近江国・長浜への旅(その9・長浜鉄道スクエア/後編)

『北陸電化記念館』にはかつて北陸線を走行していた『D51形蒸気機関車』と電化後に登場した『ED70形交流電気機関車』が展示してある。
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『D51形蒸気機関車』は“デゴイチ”の愛称で有名な蒸気機関車なので御存じの方も多いだろう。ここ長浜鉄道スクエアの『北陸電化記念館』に展示されているデゴイチは1942年(昭和17年)三菱重工で製造されたもので1970年(昭和45年)まで日本各地で走行した。
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『D51形蒸気機関車』は日本を代表する機関車で一形式では最も多く生産された。
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間近で見る蒸気機関車は流石に圧倒的な巨大さで伊蔵に迫って来るものがあった。蒸気機関車の魅力は電車とは違い走行に関る一つ一つの機械動作そのものが目で見る事が出来る事にある様に思う。細かな機械部品の一つ一つが動きいくつもの行程を経て動輪に力を伝える仕組みが見ているだけでよく分かるのが面白い。実際に走行しているところがなかなか目にする事が出来ないのが残念だ。
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北陸本線で活躍した蒸気機関車ではあったがこの北陸地方には高い山々が多く蒸気機関車での輸送力も低く押さえられてしまっていた。また時代とともに増加する輸送量に伴って蒸気機関車での輸送力が限界に達し電化が計画された。まず1957年(昭和32年)に田村〜敦賀間が複線化されて電化、1962年(昭和37年)に当時世界最長の『北陸トンネル』が開通して福井までが電化された。
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その電化後に活躍したのがこの『ED70形 水銀整流器式 交流電気機関車』である。日本で初めての交流電気機関車だ。1957年(昭和32年)製でこちらも三菱製。19台が製造されたが現存しているのはこの車両のみとの事である。当時は旅客列車や貨物電車も全てこの機関車が牽引していた。1975年(昭和50年)まで北陸線で使用されていた。

かつてこの北陸地方で活躍した二台の機関車は静かな余生をこの『長浜鉄道スクエア』で送っていた。これでひと通りの見学を終えた形になった。伊蔵はこの施設に立ち寄る予定は全くなかったのだがなかなかどうしてかなり楽しめた。<つづく>

近江国・長浜への旅(その8・長浜鉄道スクエア/中編)

『旧長浜駅舎』の建物から出て裏手に回ると次に現れたのは『長浜鉄道文化館』。
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カマボコ形の屋根の展示館で鉄道の歴史や文化、長浜駅にまつわる遺物などを見学出来る様になっている。またこの建物の中の壁沿いには鉄道模型のレールが約66メートルに渡って敷設されていて模型の列車が随時走行している。電車好きな子供は大喜びだ(笑)
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長浜駅は鉄道駅としての役割に加え、琵琶湖を利用した鉄道連絡船の玄関口という性格も持っていた為に普通の駅とは違い実に様々な展示品がある。古い時代の時刻表や路線図などを見るのはとても楽しい。当時の長浜駅周辺のジオラマ展示もあったりした。
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1882年(明治15年)に『太湖汽船株式会社』が鉄道連絡船の運行を始めた。長浜駅のすぐ脇の桟橋(当時は琵琶湖の水が駅舎近くまであった)から発着していたのだという。長浜〜大津までを約3時間半で結んでいた。やがてこの鉄道連絡船は長浜〜大津間が鉄道で結ばれるとその役割を終えた。
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駅につきものの大時計も展示されていた。この大時計はアメリカ製らしい。かなりの年代物だろうが立派な時計で味がある。展示品として飾っても遜色はない。この時計は今まで幾人もの旅人を見つめて来たのだろうか・・・
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これらの展示物のほか精巧に造られた鉄道模型や蒸気機関車から電化への移り変わり等についても分かりやすく説明されていた。
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伊蔵はもう一つの展示棟『北陸線電化記念館』へと向かう事にした。<つづく>

近江国・長浜への旅(その7・長浜鉄道スクエア/前編)

現在のJR『長浜駅』の駅舎を少し南へ行った場所に『旧長浜駅』の駅舎が残っている。
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その『旧長浜駅』の駅舎は現在も残されており『長浜鉄道スクエア』という鉄道となっている。この駅舎は敦賀線(北陸線)の起点駅としてまた長浜〜大津間の鉄道連絡船の駅として1880年(明治13年)着工、1882年(明治15年)の鉄道開通とともに完成したもので、現存する日本最古の駅舎である。
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この旧駅舎をモデルにして現在の『長浜駅』は建てられているという訳だ。これで何となくレトロ風に見える外観の訳が判明した。
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これが『旧長浜駅』の駅舎で・・・
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そしてこれが現在の『長浜駅』駅舎。窓枠の縁取りにレンガを嵌め込んだデザインが踏襲されているのが分かる。旧駅舎は木骨構造の石灰コンクリート造りで設計はイギリス人技師の『ホルサム』が担当したという。当時は駅舎という公共施設はまだまだ珍しく凝った造りのこの建物は人々を驚かせたという。
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早速伊蔵はこの『長浜鉄道スクエア』の中に入った。入口には駅舎の名残りなのか小さな改札室があり、そこが入館券売り場となっていた。入館料300円。駅舎に入るとすぐコンコースというには狭い広間があった。当時はここに旅客者がいて汽車を待っていたのだろう。
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1869年(明治2年)明治政府は欧米の先進国に追い付く為の必須事項として鉄道建設を決定した。これはイギリスでの世界最初の鉄道開通から約半世紀遅れていた。明治政府の至上課題として挙げられたのは、

『幹線は東西両京を連絡し、枝線は東京より横浜に至り、また琵琶湖周辺より敦賀に達し、別に一線は京都より神戸に至るべし』

と定められていた。この至上課題の線上にあったのがこの『長浜』であった。鉄道建設決定後の二年後の明治4年には早くも長浜〜敦賀間の測量が始まった。この路線が全線完成したのは1884年(明治17年)の事である。東海道線が全通(東京〜神戸間が開通したのは明治22年の事)する前にこの長浜の町には“陸蒸気”がいち早く走っていたわけである。

少し余談。長浜城での鉄砲国産化のところでも少し話したが、日本人というのは外来の文化や機械等を素早く吸収し、工夫や改良を加えていつの間にか自分のモノにしてしまう事に非常に長けた民族だという事がいえる。ナチス・ドイツのヒトラーは自らの著書『我が闘争』の中で日本人について書いていて、日本人は『文化指示的民族』と定義している。つまり文化をうまく流用し利用する能力は優れているが、決して最初から創造する能力は無いという日本人を低く見るような文面が書かれている(日本でも彼の書籍は翻訳されたが、この件は日本軍部が文面を意図的に削除していた事が知られている)彼が世界最高の民族としているのは御存じの通り“アーリア人種”である。

ヒトラーの説は一理あるが、江戸時代には鎖国して外国の力を借りなくても国内で十分自給自足で来ていた訳だし、日本独自の文化も多数この時期に生まれた訳だから全部が全部彼の説に頷く訳にはいかないが、民族観としては面白い観察ではある。

余談が過ぎた。とにかく明治初期の日本人は早く欧米社会に追い付こうと懸命に努力したのだという事がこの鉄道建設一つを見るだけでも事でも分かったという事。
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『旧長浜駅』駅舎内は一階部分は全て見て回る事が出来る様になっている。一等二等待合室、休憩室、倉庫係室、世話係室、駅長室などをグルリと見学する。伊蔵が子供の頃にはこういった木造の駅はザラに存在していて妙に懐かしい感じがした。現在はどこの駅に行っても自動改札機に切符を入れるだけになってしまった。昔は多くの駅の改札で切符にハサミを入れてくれた駅員さんが当時は多く居たように記憶している。
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旧駅舎の見学を終えた伊蔵は次に別棟の『長浜鉄道文化館』へと向かった。外は相変わらず悪天候だった・・。<つづく>

近江国・長浜への旅(その6・天守閣の上からの景色)

伊蔵は三層五階の長浜城の最上階への階段を上っていた。階段部分は暖房が効いていない為寒いがそれが最上階へ向かうにつれどんどん気温が下がって来るのがわかった。恐らく最上階は吹きさらしの状態なのだろうと思いつつ階段をなおも上がって行った。

最上階は思った通り無暖房で展示品は何も無く、あったのは登城記念にメダルに打刻出来る名所にありがちな機械があるのみで四方の扉の内、一ヶ所だけが開いていて冷たい風が吹き込んでいた。扉の外には四方に回縁があって望楼を一周する事が出来る様になっていた。
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上の写真は長浜市内の東北方向を見たもの。遠くに見える山々は琵琶湖から吹く強風が吹き付けて白く煙ってしまっている。伊蔵は回縁を回って西北角へと向かおうとしたがあまりの冷たい強風で辿り着く事が出来なかった(笑)角までは歩けなかったがその西北の方角の写真は撮影出来た。
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その方角は広大な琵琶湖が広がっている。晴れていればかなりの眺望だろうが本日のこの天候ではそれは望むべくも無い。
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琵琶湖の湖水には強風で白波が立っており、ちょっと見た感じ『ここはオホーツクの海か、津軽海峡か!?』と思える程の様相を見せていた。まさに津軽海峡冬景色状態(笑)こういう景色を眺めながらの一人旅というのは非常に侘びしさを感じる。
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茫々とした琵琶湖の湖面を眺めながら秀吉も一豊も今伊蔵が見ている同じ風景を眺めた事があるのだろうか・・と考えに耽った。
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ここ長浜では雪は降っていないが強風が吹きすさび、それが大きな山々にぶつかってその山の向こうに雪雲を発生させ、岐阜県をはじめとするの濃尾平野に降雪をもたらしているようだった。自然の力とはなんとも凄まじい・・。

すっかり最上階で身体が冷えてしまった伊蔵はそろそろ長浜城をお暇する事にした。この天候では旅をする気力も萎えてしまいそうではあったが、取りあえず来た道を引き返し『長浜駅』まで歩く事にしたのだった。<つづく>

近江国・長浜への旅(その5・長浜歴史博物館/後編)

伊蔵は長浜城・長浜歴史博物館の三階展示室へ続く階段を上って行った。三階展示室では主に長浜の文化について展示がなされていた。

まずこの長浜から出た文化人、『小堀正一(こぼりまさかず)』についてが三階での初めの展示だった。正一は『小堀遠州(こぼりえんしゅう)』の名の方が有名であろう。彼は江戸時代初期の武将でここ近江国坂田郡小堀村の出身。父とともに浅井家、豊臣家と仕えた。この京都伏見時代に『古田織部(ふるたおりべ)』に茶道を学び、後に徳川家の世となった時には家康の隠居の城であった駿府城の普請奉行に抜擢され、無事にそれをやり遂げた功により従五位下遠江守に叙せられた。このことから“遠州”と呼ばれる事になる。

小堀遠州は近江小室藩主でもあったが茶人、建築家、造園家などの芸術家としての面で名を馳せた人で様々な城郭や御殿の普請や庭園などを造った。彼の親しんだ茶の湯は現在でも受け継がれ『遠州流茶道』として残っている。

次の展示は『国友鉄砲鍛冶』についての展示であった。
今回の伊蔵の長浜の旅の目的となった一つがこの国友鉄砲鍛冶についてであったので詳しく見てみた。現在の長浜市街から少し東北に行った場所に“国友(くにとも)”という小さな集落があるのだが、戦国時代この集落は『堺』と並ぶ鉄砲の一大生産地(三大生産地は堺・国友・根来)であった。国友には沢山の優秀な鉄砲鍛冶集団がいて数々の戦国大名からの鉄砲の発注を受けていた。
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国友鉄砲についてはこの長浜城の見学の後、伊蔵が出掛けた『国友鉄砲の郷資料館』のレポでも書き記すのでここでは簡単に記しておく事にする。

長浜歴史資料館の国友鉄砲についての展示は非常に興味深くて面白かった。火縄銃の展示については一般的な大きさの銃、中筒、大筒といった口径の異なった銃の展示をはじめ、製造法やその製造する為の工具、分業について、厳しい徒弟制度などの紹介等がなされていていたが伊蔵が一番面白かったのはやはり製造に関する部分であった。

1543年(天文12年)種子島に一艘の中国船が漂着した。それに乗っていたポルトガル人から二挺の鉄砲が日本に初めて伝えられた。当時の日本は御存じの通り戦国時代であり甲冑を造ったり刀剣を造ったりする優れた鍛冶職人も多かった事もあって日本人はこの新しい兵器を瞬く間に国産化し武器として使用するに至る。一説には『関ヶ原の戦』で使われた鉄砲の総数は五万挺を超えたといわれ、当時日本は世界最大の鉄砲生産国であった。

これらの鉄砲の生産は大きく二つのグループの分業で行なわれていて銃床(木製の台座部分)とカラクリ(引金などの機関部)を造るグループと銃身を造るグループとに分かれていたという。伝来した鉄砲から最初に製造を試みた鍛冶師達には様々な困難があったが日本人特有の手先の良さと優れた技術力・工夫によって国産化する事が出来たのである。鉄砲を造る為の工具も無かったわけだからそれからまず造らねばならなかったので苦労した事だろう。これら製造方法については丁寧にビデオ放映にて見る事が出来るようになっていて非常に分かりやすかった。

そのほか“東洋のエジソン”と呼ばれる『国友一貫斎(くにともいっかんさい)』の製作した品々も展示されていた。彼は国友村の幕府御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた人である。彼の製作したものとしては『気砲』と呼ばれる空気銃や自動で油を給油する照明器具、万年筆、天体望遠鏡などが挙げられる。特に自作した天体望遠鏡で月面観測、太陽黒点観測まで行なっていてスケッチも残しておりそれらの展示もされていた。月面のスケッチなどは細かくクレーターの様子や地形も描き込まれていて日本人が江戸時代にこの様な天体観測を行なっていたとは伊蔵はちょっと驚きであった。

先人達の偉大な技術力の高さに伊蔵は驚きながら三階展示室をまわり終えたのだった。さぁ次は長浜城の最上階の展望室を残すのみ!伊蔵は階段を上って行った。<つづく>

近江国・長浜への旅(その4・長浜歴史博物館/前編)

長浜市の天候はますます荒れ模様となって来た。長浜城の辺りは平地と琵琶湖の平らな湖面があるのみで吹きさらしの状態であり琵琶湖方面から吹く強風が城に当たるとピュ〜〜〜と激しい音を立てているのが耳に聞こえた。堪らず伊蔵は長浜城の入口へと急ぎ足で向かったのだった。

先にも書いたが『長浜城』は外観こそ城の体裁は整えてはいるが内部は歴史博物館となっている。であるので伊蔵は「城」に入るのに「自動ドア」をくぐるというちょっと納得のいかない事態になった。自動ドアをくぐると正面に受付があるのだが、その様子がどうも“お役所然”としているのがこれまた城見学をしに来た伊蔵には解せない感覚を与えた。やっぱりここは歴史博物館であって『城』ではないのだろう。
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入館料400円を払うと受付のおばさんが

『二階と三階が展示室、五階の最上階が展望室となっています。ごゆっくりどうぞ』

と丁寧に応対してくれた。一階のロビーには長浜や近江の地域から出た歴史的偉人や城郭についての書籍が何冊か陳列されており読む事が可能になっている。城の内部は全くの現代の資料館といった感じ。エレベーターもあるのだが伊蔵は階段でまずは二階の展示室へと向かった。二階展示室では湖北地方の歴史的あけぼのから戦国期(織田・豊臣期)までを主に紹介しているといった感じだった。

この長浜を含めた湖北地域は日本最大の湖、琵琶湖がある事から古くから人が住み小さな集落がいくつも点在していたらしく、縄文・弥生期の遺跡も沢山発掘されているようだった。石器や土器、矢尻などの展示や田下駄、木製の臼や杵などの発掘品を目にする事も出来る。

近江、特に越前地方は『浄土真宗』を信仰する人が多く戦国期などは大きな力を持つに至った。当時は“一向宗”と呼ばれ特に本願寺8世『蓮如(れんにょ)』が民衆の間に『講(こう)』と呼ばれる宗教的ネットワークと呼ぶべきものを作り上げると爆発的に門徒を増やした。こういった宗教の持つ団結力をもって門徒はしばしば自分の住む地域の支配者に対して『一向一揆』を起こす様になり、当時の各地の戦国大名の多くはこれに悩まされ、禁教令を出したり、弾圧を加えたりした。後年徳川家康が本願寺勢力の力を削ぐ為に『西本願寺』『東本願寺』というように二つに分ける事になる。これら宗教の面からみた歴史の一端についても展示品から学べる。

二階展示室のメインはやはり戦国期のもので特に長浜の町を造り城を築城した豊臣秀吉の足跡を展示したものだろう。展示室の年表を見てみると彼が織田信長からこの北近江の地を与えられ長浜城を築城し始めた歳は今の伊蔵と同じ歳であった・・(う〜む凄い)卑賎の身から関白という最高の官位まで登り詰めた秀吉の出世人生は多くの日本人に人気だ。長浜時代から天下統一するまでの秀吉はまさに輝くばかりの出世人生だが、天下をとってからの晩年の彼の人生はちょっと見習う事は出来ない。朝鮮出兵や後継問題など浅はかな思慮で政治を行なったと言われてもしかたがない感じだ。
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多くの歴史が物語っている様に、一度絶大な権力を持ってしまうと自分の言う事なす事に対して誰も反対する者がいなくなってしまうのもひとつの原因だろう。また歳をとると政治などの仕事など一人でこなす事など煩わしくなるのも当然で、彼も石田三成などの官僚に政治は任せっきりになってしまっていた。三成は確かに“ソロバン勘定”は優秀な人であったが各大名の個々の心を上手に汲み取るだけの器量が無かった為、様々な軋轢が生まれ、結局そういう面を老獪な徳川家康につけ込まれて豊臣家の滅亡を招く事になってしまった。これは人の心は決して“理屈”や“机上の計算”では動かないものだという事を表わしている。

二階展示室には秀吉以前の北近江の支配者である浅井長政とその正室お市の方の肖像画(複製)や山内一豊とその正室千代の肖像画(これまた複製)等も展示されている。複製展示だけでなく秀吉や淀殿の直筆の書状などあった。流石に直筆の書状を見ていると、歴史上の実在の人物の息使いが何だか漂ってきそうな感じで伊蔵の心は躍った(何が書いてあるのか読めなかったが解説がされているので安心だ・笑)この他、織田・徳川連合軍が鉄砲という新兵器を使用して武田騎馬隊を壊滅させた『長篠合戦図屏風』の複製も展示されていた。

日本の戦国時代における戦術はこの“長篠の戦い”においてひとつの進化を遂げたといってよい。一説には三千挺の鉄砲が使われたとされる(千挺説もある)。鉄砲の数はともかく織田・徳川の連合軍は多くの鉄砲を効果的に使用した事と武田の騎馬隊の足を止める為の馬防柵を戦場に巧く配置した事などこれまで無かった戦闘方法をもって勝利を得た。この長篠の戦いの後のあらゆる合戦・戦闘方法が一変した事は間違い無いだろう。

外の天候が大荒れだった事もあって伊蔵は時間をかけてゆっくりとこの歴史資料館を見てまわる事にした。次は三階展示室へと足を向けよう。<つづく>




週末は大須で『焼き鳥』

長浜の旅レポの途中ですがここでまた違う記事を挟ませて頂きます。

週末(金曜もしくは土曜)の晩はtakeさんのお店に出掛けるのがお決まりになっている伊蔵だが正月始めから当のtakeさんが『オーストラリア』への旅行へ出掛けている為に1月13日土曜日の晩は仕事が早く終わったにも関らず、予定無しの『暇ひま状態』になってしまった。一週間の内一回だけでも美味しい物が食べたいと考える伊蔵はこのまま帰宅するなんて勿体ない事は出来ない。そこで伊蔵は同じtakeさんの店での飲み仲間であるm-kさんに連絡をとった。

電話をかけた時、m-kさんは寝ていたようだが(笑)心良く伊蔵の求めに応じてくれ『大須』で飲み食べする事にしたのである。この日の伊蔵は“焼き鳥な気分”だったので大須の地理に詳しいm-kさんにそれらしい美味しいお店を見繕ってもらった。そこで紹介して貰ったお店がここである。
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『地鶏炭火焼 とりとり亭大須店』である。愛知県を中心に店舗を展開する焼き鳥屋チェーン店で本店は半田市にある。店内は明るく清潔な雰囲気で炭火の煙りがモクモクという事は微塵も無く普通の焼き鳥屋というイメージではない。伊蔵は是非鶏を焼いているところが見たかったのだがそれは叶わず、奥のテーブル席へと通された。

m-kさんにこの『とりとり亭』で美味しいオススメの品を聞いてみると『チキン南蛮フライ』だという。この品を一品そのまま頼むと二人では多過ぎるほど巨大なフライだという事でお店のメニューでは『チキン南蛮フライ・半分』というものもある(笑)m-kさんと伊蔵はその『半分』の方を注文した。

このほか『とりとり亭』では串焼き、鶏の刺身、御飯物、鍋までと豊富で幅広い鶏料理が揃っている。また伊蔵の好きな焼酎の種類も多くこれは嬉しかった。
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そしてやって来た『チキン南蛮フライ・半分』。四角い大皿の半分がタルタルソースの海となっており、半分がフライで埋まっているという感じだった。「う〜む・・これで半分とは・・」流石の伊蔵も驚きを隠せない。腹の減っていた伊蔵はそのフライをタルタルソースの海へと静かに沈めてたっぷりと搦めて口へと運んだ。鶏肉自体も甘くてウマイがタルタルソースもこれまたいい味だ。このソースは自家製らしい。『とりとり亭』では厳選された鶏肉を使っていて“焼き”に関しても熟練の腕で焼かれているとの事。それが料理の味ひとつひとつに如実に現れている。
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串物で注文した中で旨かったのが『ぼんじり』という一品。上の画像の向かって右側の串がその『ぼんじり』。“ぼんじり”とは簡単に言うと鶏の尻の肉の事で店によっては『ぽんぽち』の品で出される。鶏がよく動かす部位の肉なのでとても美味しい。適度なコリコリ感があり、噛むと脂肪分がジュワリ・・と出て来る。焼き加減も絶妙で塩コショウの味付けもしつこく無く非常にこの品に合っている。伊蔵はニンニクを焼いた串や鶏の首部分の『せせり』も好きなのだが、それにも負けないくらいの美味しい味であった。

『ぼんじり』を頂きながらの焼酎『黒霧島』はとてもよく合って飲むスピードも加速気味の伊蔵であった(笑)

このブログの記事を書く為に『とりとり亭』について調べていた所、ひとつの発見があった。『とりとり亭』の代表は北川民生氏という方で出身地が愛知県の日間賀島なのだという。その北川氏が故郷への恩返しとして建てた焼き鳥屋が島内に存在するという。そういえば昨年伊蔵が仲間達と日間賀島を訪れた際に見かけたお店があった・・。
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これがそのお店『ことり亭』。実は『とりとり亭』チェーン店の一つだったのだ。日間賀島に訪れた時はなぜこの様な離島にモダンな焼き鳥屋が存在するのかよく分からなかったがこれで謎が解けた(笑)
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週末の伊蔵の“焼き鳥な気分”を十二分に満足させてくれた『とりとり亭』、そしてこのお店を紹介して頂いたm-kさんに感謝です!御馳走様でした。

●『地鶏炭火焼 とりとり亭 大須店』
 所在地:愛知県名古屋市中区大須3丁目18-29
 電話番号:052-263-3360
 営業時間:17:00〜25:00(ラストオーダー24:00)
 定休日:火曜日
 
●『ことり亭 日間賀島店』
 所在地:日間賀島島内 
 ※帰りの船の時間に注意が必要!

●とりとり亭ホームページ
http://www.toritoritei.co.jp/index.htm

近江国・長浜への旅(その3・湖畔の城)

JR長浜駅西口から『長浜城』へ向けて歩き始めた。しかしさっきまでの雨は『霰(あられ)』模様になり風もますます強くなって来たので両手で傘をしっかり持たねば飛ばされかねない状況だった為、わずかな距離を歩くだけでも大変だった。

駅からすぐの場所に湖岸道路が南北に走っており正面には樹木が植えられている公園が見える。湖岸道路を横断して伊蔵はこの強風を少しでも避ける事の出来るその公園内へと足を進めた。公園の緑の中を抜けると目指す『長浜城』の天守閣の下へと至る事が出来た。
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なかなかスマートな印象の城だ。先にも書いたがこの『長浜城』は羽柴秀吉が築城した。彼の出世の第一歩となった城である。しかし今伊蔵が目の前に見ている城は名前こそ『長浜城』だが内部は歴史博物館となっており鉄筋コンクリート造、三層五階の現代建築である。実際の『長浜城』の外観がこうであったのかどうかも実のところ不明である。
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外観が不明なのは1615年(元和元年)この城は“廃城”になってしまっており、長浜城の石垣や櫓材は大半が彦根城築城の為運ばれてしまって長浜城の姿は完全に失われてしまったからだ。

ここで長浜城の歴代城主を列記すると、

●羽柴秀吉
(1573年・天正元年築城)
●柴田勝豊
(本能寺の変後、清洲会議で長浜を譲られ入城・ちなみに彼は柴田勝家の甥)
●山内一豊
(賎ヶ岳の戦の後、天正13年〜18年まで城主。その後、彼は土佐へ移封される)
●安藤信成
(1606年・慶長11年入城、慶長17年息子の信正に譲られる)

そして安藤氏が摂津高槻城へ移封されると廃城。長浜城は湖北の支配の役割を『彦根城』に譲ってその役割を終えたのである。

現在の長浜城は1983年(昭和58年)に再建されたもの。創建当時の天守閣の様式を想定して造られた。どことなく国宝の犬山城の外観と似ているのも同時代の城の様式を真似た故であろう。昨年の大河ドラマ『功名が辻』ではこの長浜城の城主であった『山内一豊』が大きく取り上げられた為にこの城も脚光を浴びた。それまではむしろ豊臣秀吉の出世城という話題性の方が大きかったのではなかろうか。

これからゆっくりこの長浜城内の歴史博物館をまわって見る事にしよう。<つづく>

近江国・長浜への旅(その2・荒天の中、長浜入り)

長浜への旅の出発日はかなり気温が低く朝から雪が降っており、これから始まる旅の波乱を予感させる幕開けとなった。伊蔵の住む町から『長浜』へ向かうには真っ直ぐ西へ進み米原に出て北へ向かう感じになるのだが時間短縮の為、一旦南の名古屋へ出て新幹線で米原へと向かう事にする。ちょっと遠回りだがこの方が移動時間が大幅に短縮出来るのである。

名古屋へと出た伊蔵は新幹線に乗り込んだ。この天候の影響で新幹線も徐行運転で運行していた。新幹線の車窓から眺める濃尾平野の景色はことごとく灰色であった。朝家を出る時より明らかに雪の降る勢いが増しているようだった。岐阜羽島駅を出ると列車は関ヶ原方面へと走るが、この辺りから雪の勢いと風がますます強くなって来ておまけに空まで暗くなって視界がかなり悪くなって来た。

『これは今日来たのは間違ったかもしれぬ・・・』

と伊蔵は内心そう思いながらもこういった時に旅に出掛けるのも一興だとも思っていたのだった。関ヶ原付近は大荒れだったのだが驚いた事に県境を越えると町を白く染めていた雪が全く消えてしまい雨が降っていた。しかし相変わらず風は強そうだ。

米原駅で新幹線を降りるとJR北陸本線の列車に乗り換え北上、午前10時頃、伊蔵はJR『長浜駅』に降り立った。長浜は思っていた通り気温は低く、依然として冷たい強風が西の方角から吹いていた。
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伊蔵がイメージしていたJR長浜駅はもっと大きな感じがしたがそうでも無かった。駅舎の外観はどことなくレトロな雰囲気が漂っていた。この駅舎がレトロ的なのはちゃんと意味があった事が後ほど判明したのだがこの回ではまだ語らないでおく事にしよう。
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駅の東側が町の中心部という感じで西側はちょっと歩けば琵琶湖の畔に至る事が可能だ。『長浜駅』に降り立った伊蔵は西口から駅舎を出て、若き秀吉が初めて自分の領国を信長より与えられ自ら築城した琵琶湖畔に聳える『長浜城』を見る為に歩き始めたのだった。<つづく>

近江国・長浜への旅(その1・はじめに)

1月7日の日曜日、伊蔵は今年の旅初めとして『近江国・長浜』を選んだ。選んだと言っても急に決めた事なのだが(笑)

『近江国』とは現在の滋賀県にあたり『長浜』はその北東部、琵琶湖の畔に位置する町の事である。その昔は“今浜(いまはま)”と呼ばれていた。地理的にこの町のある場所は京の都から越前・越中・越後へと続く『北国街道(ほっこくかいどう)』の要衝の地にあり、また美濃(現在の岐阜県)から京へと至る途上に位置し、戦国時代は重要視された土地であった。

戦国期、この北近江の地は浅井氏が治めており『小谷城』を根拠地としていた。『浅井長政(あざいながまさ)』の頃、隣の尾張・美濃で織田信長が勢力を伸ばしはじめた。信長は上洛する為この浅井長政に自分の妹である『お市』を政略的に嫁がせ同盟を結び、京へ進出する足掛かりを作ったが、後にこの同盟関係は崩れ小谷城近くの『姉川』で両者の決戦が行なわれ信長が勝利し浅井氏は滅亡する。

この浅井攻めで戦功のあった『羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)』は旧浅井の領国を信長から与えられた。秀吉は当時『今浜』と呼ばれていた地に築城を始め、晴れて一国一城の主となったのである。この時に町の名を『長浜』に改めた。後に秀吉が天下人となってからはこの長浜は『山内一豊(やまうちかずとよ)』に与えられ治める事になる。

またこの長浜の『国友(くにとも)』と呼ばれる地域には優れた刀鍛冶が昔から住んでおり、1543年(天文12年)に種子島に鉄砲が伝来するといち早く国友の鍛治師達の優れた技術がかわれて鉄砲製造が命ぜられ沢山の注文を受ける事になった。彼ら国友鍛冶師が造る鉄砲は戦国時代の戦闘方法を一変させた事は語るまでもない。

これらの歴史がいっぱい詰まった町、『長浜』を伊蔵は見てみたいと唐突に思い立ち今回旅に出る事にしたのだった。旅立ちの前にいろいろ長浜の町について調べてみると歴史的要衝の地という事で名所も沢山あるようであった。しかし出発前日から天候状態が心配ではあったのだが・・・。その件は本編でお話ししようと思う。<つづく>

伊蔵の『いざ鎌倉!』(その19・最終回/再び小町通りへ)

昼飯を『一茶庵』でたらふく頂いて満腹の腹を抱えながら伊蔵は『小町通り』を北側から入って行った。相変わらず通りは観光客でごった返していた。そんな中伊蔵が立ち寄ったお店は『鎌倉まめや』さん。
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ここ『鎌倉まめや』さんは厳選された豆を使い、その豆の特質に合わせて作られる豆菓子が常時50種類以上並ぶお店。その全てが試食可能という事でいつも店先や店内は幅広い年齢層の観光客で混雑している。
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抹茶味の落花生や珍しいマヨネーズ味の豆など伊蔵好みのお豆さんが沢山ある。豆はビールやお酒のおつまみとして身近な存在であるだけでなく、日本人の食生活に昔から親しまれてきた食材である。『まめや』さんではそれを素材の味を壊さないように現代の感性で様々なバラエティー溢れる味にへと仕上げているという訳だ。
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食べやすくアレンジを加えてある豆の種類の豊富さには本当に驚かされる。どれを試食しても美味しいのだが、伊蔵が気に入ったものは先程も書いたマヨネーズ味、チーズアーモンド、モカショコラ、黒胡麻といったものが美味しかった。全てを味わえなかったのは残念だったが見るだけでも十分楽しい。
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●『鎌倉 まめや』
 所在地:神奈川県鎌倉市雪の下1-5-38 
 電話番号:0467-25-2524(FAX兼用)
 営業時間:10:00〜18:00
 定休日:年中無休 
 ホームページ:http://www.mame-mame.com/

次に伊蔵が立ち寄ったのは『鎌倉 味くら』さん。お漬物の専門店である。
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先程の『まめや』さんと同じくこちらの『味くら』さんの漬物も沢山のバリエーションがあり試食も可能になっている。年間50万人の観光客が訪れるというから凄い。古漬、浅漬の他にも佃煮や珍味、押し寿司も販売している。

『味くら』さんの漬物は徹底的に塩分を控えるだけでなく合成保存料や着色料も極力使用せず素材の味を引き出すようにしているという。それだけこだわりをもって作られた漬物は実際に頂いてみると確かに美味しく自然な酸味が口の中に広がる。『味くら』さんはここ小町通りの一店のほか、若宮大路にも一店ある。またネット通販も行なっている。

●『鎌倉 味くら』
 所在地:小町通り店/神奈川県鎌倉市小町2-8-36
     若宮大路店/神奈川県鎌倉市雪の下1-9-29
 電話番号:0467-22-6835(代) FAX 0467-22-6857
 ホームページ:http://www.tsukemono-mikura.co.jp/

伊蔵が小町通りで最後に寄ったのが『元祖鎌倉コロッケ 鳥小屋』さん。揚げ立てのコロッケを販売しているお店だ。
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普通のジャガイモコロッケもあるのだがこの『鳥小屋』さんは変わり種コロッケを販売している事で有名で『出没!アド街ック天国』の“薬丸印の新名物”でも取り上げられた事がある。チョココロッケ、紅芋コロッケ、黒胡麻コロッケ、梅コロッケ、抹茶コロッケなんてものがある。二階は食堂になっているとの事。

変わり種コロッケも味わってみたかったのだが伊蔵にとってのコロッケとはやっぱり“ジャガイモに引き肉が入ったコロッケ”なのである。日本人ならこれが一番ウマイだろう。お店の気さくなお姉さんに揚げ立てのコロッケを注文。『あつあつだから火傷に気をつけね』と言われホクホクのコロッケを早速頂いた。
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サクサクカラリと揚がった衣と中の甘いジャガイモの味が混ざり合ってとても美味しい。コロッケはやっぱこれだ!(笑)

●『元祖鎌倉コロッケ 鳥小屋』
 所在地:神奈川県鎌倉市小町2-10-4
 電話番号:0467-23-6800 FAX番号 0467-23-0338
 営業時間:11:00〜23:00 
 定休日:木曜日

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昼飯をきちんと摂ったというのに『小町通り』に入り込んだおかげでまたいろいろ食べてしまった・・(笑)伊蔵は鎌倉駅に入る前に若宮大路に出て鶴岡八幡宮の『二の鳥居』の前に出て鎌倉の町を最後に目に焼き付けたのだった。

結局、計画不足で今回の旅では鎌倉の町の東側には全く足を踏み入れる事が出来なかった。また再度ゆっくりまわって見たいと思う。湘南・鎌倉近辺はとにかく名所スポットが非常に多く目的を絞って歩かねば一泊二日では十分に回る事が不可能だと今回の旅でよく分かった。こうして伊蔵の鎌倉の旅は終わったのだった。<完>

伊蔵の『いざ鎌倉!』(その18・鎌倉の旅の〆もやっぱり蕎麦)

伊蔵が旅の最後に昼食先として選んだのは今回もやっぱり『蕎麦』であった(笑)
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『手打そば 一茶庵』は鶴岡八幡宮の平家池のすぐ南側の道筋にある蕎麦屋さんである。蕎麦にもいろいろ系統や暖簾分け等があるがその中で“一茶庵系”と呼ばれるものがある。その一茶庵系の総本山といわれるお店は栃木県足利市にある名店『一茶庵本店』だ。伊蔵が今回訪れた鎌倉のこの一茶庵はその流れを汲む一店である。足利一茶庵本店の主人故・片倉康雄氏から受け継いだ蕎麦の味をこの鎌倉で40年余守っているという。
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この鎌倉一茶庵は支店も展開しており東京駅前の『丸ビル』内にもある(以前伊蔵もここで三色蕎麦なるものを食した経験がある)また蕎麦に限らず『丸山亭』というフランス料理店も鎌倉に展開している。

その鎌倉一茶庵の暖簾をくぐってみた。鎌倉では名の知れた名店だけあってお昼前だというのにお客さんが多い。手前にテーブル席、奥はかなり広い座敷になっている。テーブル席はすでに埋まっていた為、伊蔵は奥の座敷に通された。
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座敷奥には中庭が配されていて流石に古都鎌倉といった雰囲気が味わえる。伊蔵が通された座敷の他にももっと広い座敷が渡り廊下を挟んで向こう側に見えたのでお店の奥行きはかなりの広さがあると思われた。早速お品書きを見てみる。かなりの数の品があって驚いた。各種蕎麦は勿論の事、一品料理も豊富で御飯物まである。またデザートとしてアイスクリームやプリン等もあってちょっと変わっている。

伊蔵は『特選十割そば』に薬味トッピングとして『辛味大根おろし』を付けた。そしてもう一品『柚子切りそば』を注文した。

この鎌倉一茶庵の蕎麦の特徴は本家の足利一茶庵の味を大切に守っている事と厳選した蕎麦粉のみを使用して腰の強さと独特の旨味を引き出している事だという。
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伊蔵の前にまず『特選十割そば』がやって来た。おおお!白い麺が何とも眩しい!蕎麦のみをまず口に入れてみる。十割(蕎麦100%)という事で何もつなぎを使っていないにも関らず麺にかなりしっかりしたコシが感じられ驚いた。これに薬味の辛味大根おろしをプラスして頂くとまたピリリとしてウマイ。
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ただ以前も東京神田の蕎麦屋さんを数軒を訪れた際に思った事だが、どうも関東の蕎麦汁は味が濃くて少々辛いと思うのだった。鰹ダシの匂いがかなり強い。これは地域性の問題もあると思う。蕎麦の本場の関東の味に伊蔵の舌が慣れていないのであろう。
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これがもう一品の『柚子切りそば』である。こちらも白い色の麺だ。画像ではよく分からないかもしれないが柚子の細かい粒子が麺自体に練り混んであり、口に入れて麺を噛んでいると蕎麦の風味と柚子のホンノリとした香りが絶妙にマッチする。蕎麦と柚子がこんなに相性の良いものだとは知らなかった。

二品を平らげると結構腹が膨れたが、蕎麦屋に入ったら『蕎麦湯』を飲まねばなるまい。鎌倉一茶庵の『蕎麦湯』は白く濁ってはいなくて綺麗な透明であった。それを残った蕎麦汁に少しずつ投入し飲む。なかなかいい味だ。この蕎麦湯を全て飲み干すと流石に満腹となってしまった。値段的にも少々高く付いてしまったがお店の雰囲気、蕎麦の旨さを考えれば十分に堪能出来たのではないかと思う。

食後に少し休憩してから伊蔵は『鎌倉一茶庵』を後にした。最後に『小町通り』を通ってJR鎌倉駅まで歩こうと考え、その『小町通り』へと向かった。<つづく>

●『手打そば 一茶庵』
 所在地:神奈川県鎌倉市雪の下1丁目8-24
 電話番号:0467-22-3556
 営業時間:11:00〜19:30
 定休日:木曜日
http://r.gnavi.co.jp/g921800/

伊蔵の『いざ鎌倉!』(その17・鶴岡八幡宮)

前日に夜になってしまった為、十分に見学する事が出来なかった『鶴岡八幡宮』に再度訪れるべく伊蔵は『建長寺』前のバス停から江ノ電バスに乗り込み『八幡宮前』というバス停でバスを下車し、境内へと向かった。
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やっぱり昼間に訪れないと鎌倉のシンボル『鶴岡八幡宮』の“鮮やかな朱色の社殿”は映え無い。表参道はさほど観光客で混雑する事も無く歩きやすかった。
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広い表参道を真っ直ぐ歩くと『舞殿(下拝殿)』がある。源頼朝に追われた義経の愛妾『静御前』が頼朝の求めに応じてここで舞ったとされる。その時、義経を慕う歌を詠んだ。

『吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき』
『しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』

静御前はこれを頼朝と政子(北条政子/頼朝夫人)の前で詠んだがこれは当然頼朝の怒りをかう事となり、その後彼女と彼女の腹の中の息子は悲しい運命を辿る事になった。そんな悲しい逸話を持つ『舞殿』だが実際に自分の目で見てみるとそんな悲話の面影は無くこの建物は優雅で美しい。

そんな事より伊蔵が非常に悲しかったのは『舞殿』のすぐ裏手の『若宮(下宮)』脇にあった“おみくじ自動販売機”にてくじを引いたところ、『大凶』が出てしまった事である・・・・。数多くの寺社仏閣に出掛ける伊蔵だが毎回おみくじ運が悪いのが常となっている。しかし『大凶』はここ『鶴岡八幡宮』が初めてである・・・。思い起せば『浅草・浅草寺』でも『凶』が出た。仕方無いと思いながらもムシャクシャし、大凶は大吉に通じるというしこの大凶の運勢も年末までで終わりさ!と勝手な結論に至った伊蔵は本宮へと続く石段の前に立った。
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●『鶴岡八幡宮』
源頼朝が武家・源氏の守神として創建した鎌倉の中心に位置する神社。
平安時代中期の武将源頼義(みなもとのよりよし/河内源氏の二代目で八幡太郎義家のオヤジ・頼朝の五代前の先祖)が前九年の役(源頼義と東北の安倍氏との戦い)の戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉に由比若宮として勧請したのが始まり。その後、河内源氏の子孫である頼朝が平家打倒を旗印に1180年(治承4年)伊豆で挙兵し鎌倉に入った時、由比若宮を現在の場所に移したのが『鶴岡八幡宮』である。以後、源氏の守護神として崇拝されている。