2007-06

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伊蔵、登城す/その5・本丸御殿発掘現場・後編

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『本丸御殿』の敷地に敷設された見学コースもあとわずかになって来た。時間もそろそろ午前10時という事で本日初めての発掘説明会が行なわれる。
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見学コースの途中では学術資料の記録という事だろうかビデオカメラを回すカメラマン達がいた。見学コースは最後に本丸御殿の裏手にあたる“上台所”と呼ばれる棟跡を通って終わりとなった。そろそろ見学説明会が始まる頃だろう・・・と考えていると見学コースの入口付近にある解説パネル前に人が集まり始めた。いよいよ説明が始まるようだ。
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さすがに発掘説明を聞こうとする人々は年輩の方達が多かったが中にはチラホラ若い人達も混じっていた。伊蔵はなかなかこういう遺跡発掘現場というものに訪れた事が無い。ましてや説明まで聞く事など滅多にあるものではない。午前10時、説明会の時間だ。学芸員の方がメガホンで『発掘説明をお聞きになり方は解説パネル前にお集まり下さい』と呼び掛けていた。人々が集まってきた。
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壇上に立って発掘現場説明を始めた学芸員の方は伊蔵が想像していたよりずっと若く黒縁メガネをかけた青年であった。壇上に立ったその姿はどこか昔の自動車レーサー“浮谷東次郎”を思わせた(笑)彼は見学コースが敷設されていたコース順に各部署の説明をしていった(その1~その4までに詳細に説明したのでここでは省略させて頂く)
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説明を聞いていて驚いたが今ここに存在している『礎石』は復元する御殿には使用されないという事だった。脆くなっているので仕方が無いだろう。現在の敷地の上に新たに盛土をした上で整地し、復元本丸御殿を建てるとの事だった。目下『礎石』の配置や遺構等を詳細に測量して資料として残せるよう調べているところなのだそうだ。『礎石』の上に直接盛土をしてしまうのか、『礎石』全てを取り除いて場所を移して保管するのかは分らないがいずれにしても当時の『礎石』が敷地に並ぶ姿を見る事が出来るのは後わずかの期間しかないといえる。
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数十分で説明会は終わった。もうちょっと詳しくコースを周りながら説明してくれたら満足だったのだが・・・。説明会の後、再度コースをゆっくり歩き説明を受けた部分を再検証した伊蔵であった。<つづく>
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『青春』というものが無かった彼らと一緒に・・・

『名古屋城本丸御殿発掘見学会』のレポの途中ですが、ここでひとつ別の話。

今朝、新聞を読んでいた伊蔵の目に止まった一つの記事があった。
それは『長野の80歳男性、日本一周目前で事故死』というものであった。6月25日午後1時50分頃、長野県小谷村の国道148号トンネル内で自転車で日本一周中のHさん(80歳)が後から来た22歳の若者の運転する大型トラックにはねられ死亡してしまったという交通事故の記事である。

Hさんはマウンテンバイクで日本一周の旅の途上であり昨年四月に長野県の自宅を出発、日本海側を北上し北海道、太平洋側を南下して九州、沖縄を経由し日本海側を走って今月中に長野に戻る予定であった。今回事故があった現場は自宅まで約70キロの地点・・・・。Hさんは背中に『鎮魂』と書かれたTシャツを着て自転車に乗っていたという。そして旅先で会った人々に、

『多くの戦友が戦争で亡くなった。青春というものが無かった彼らの代わりに今、彼らと一緒に日本一周の旅行を楽しんでいる』

と話されていたという。足掛一年間、日本を走りきりゴールまであとわずかと迫ったところで起きたこの悲劇。なんともやりきれない気分になってしまう。Hさんはトンネル内の幅約7メートルの片側車線の左端を走行していたという。彼に否は全く無いと言ってよい。かといって加害者の大型トラック運転手の前方不注意なのかは定かではない。

日本の道路事情は全くの“自動車最優先”であり自転車が安全に走れる状況では決してない。道交法では自転車も『軽車両』の一種であり車道を走る事が義務付けられている。しかしながら前述のように自動車が我が物顔で道路を独り占めしてしまっているのが悲しいかな日本の道路事情なのである。車道は危険だからと自転車で歩道を走れば歩行者から煙たい顔をされてしまう。(確かに自転車に乗っている人のマナーも悪いのもあるが)

『一体、楽しく自転車に乗っている人達はどこを走ればいいのか』

Hさんも、戦地で亡くなった戦友の方々もこの様などこか矛盾した国、交通戦争の絶えない国を作る為に御国の為に戦った訳ではなかろう。確かに平和ではある日本だが、様々なマナーは低下する一方だし、飲酒運転も後を絶たない・・。

伊蔵が毎朝・毎夜乗る電車内でもこのようなアナウンスが流される。

●車内での携帯電話による通話はご遠慮下さい。
●席は○人掛けとなっております。出来るだけ詰めて譲りあってお座り下さい。
●席にお掛けの方は荷物を網棚に置かれるか膝の上にお持ちになって一人でも多くのお客様が座れるよう御協力下さい。
●ご自分で出したゴミは車内に放置せず駅構内のくず入れにお入れ下さい。
●出入り口付近での座りこみはご乗車になるお客様の大変迷惑となります。座り込みはご遠慮下さい。

ここまでいちいち車内アナウンスされてしまう程に日本人のマナーは低下してしまっているのである。当たり前の事のなのにこのようなアナウンスが流れているにも関らず迷惑行為を続ける人を見ていると“あきれて”しまうし第一そんなアナウンスを流される事自体マナーを守っている人にとっては馬鹿にされている様にさえ感じられて仕方が無い。きっと同じ様に思っている人達もいるだろう。

自転車で長距離を走る事が好きな伊蔵にとってこの新聞記事は他人事とは思えず勢いで書いてしまった。

伊蔵、登城す/その4・本丸御殿発掘現場・中編

本丸御殿発掘現場の見学コースを伊蔵は引き続き歩いていた。御殿敷地跡には碁盤の目の様に柱を支えていた『礎石』が並んでいる。
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一見同じ様な石が並んでいるようだが特徴的な石も中にあり説明版が付けられていた。名古屋城に限らず他の城の石垣等にもよく見られる『刻印』(城の普請に関った大名が石材の紛失・盗難を防ぐ事や他家との材料との区別を付け所有者を明らかにする為に刻んだもの)やこの『礎石』にも刻まれているのが観察出来た。
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石垣の刻印はよく知られているがこのような床下の目に付かない部分の『礎石』にも刻印が残されているとは伊蔵は知らなかった。
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これらの刻印を見ていてフト思い出した事がある。以前に安土城に訪れた時の事をである。あの城の石材には“墓石”や“地蔵”が城の石材として平気で使われていた。それを見た時は織田信長の墓石や地蔵は“所詮石でしかない”という割り切った合理的さに驚いたものだった。流石にこの名古屋城本丸御殿の『礎石』にはそのような物は使用されてはいなかったのだが、信長の生きた安土・桃山時代とは違った意味での歴史の爪跡がここの『礎石』には残っていたのである。
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それは第二次大戦当時の“戦争の爪跡”であった。上の画像の『礎石』は空襲によってこの本丸御殿が焼け落ちた際に熱せられ赤く変色しまったもの。
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あまりの熱で粉々に砕け散ってしまった『礎石』も観察出来た。これら説明版のついた『礎石』は戦災による爪跡が顕著に見られた物だが、実は本丸御殿跡に並ぶ『礎石』のほとんどが火災による熱によって非常に脆く崩れやすくなってしまっているのである。つくづく残念な事だ。
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こちらは『上洛殿』の『礎石』。柱を支える為に石に穿たれた“ほぞ穴”が観察出来る。
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これは“矢穴”の跡が残されている『礎石』だ。ここで言う“矢”というのは『楔(くさび)』の事である。大きな石を少ない力で割る為に楔を何ヶ所かに打込むわけである。その楔を打ち込んだ跡が残っている石が上の画像である。伊蔵はてっきり現代の石工が使用する様な鉄製の楔で石を割っているものだと思ったのだがどうもそうではないらしい。
驚くべき事に木製の楔を使って石を割っていたらしいのである。

まず石に楔用の穴を開けて、そこに堅い木の楔を叩き込みそこに水を垂らす。木は水を吸って膨張する。その木の膨張力で大きな石を割ったというのだ。木の楔なので鉄製の楔に比べると相当大きな楔穴が残るというわけだ。石を割るにも時間がかかったであろう。実に手間のかかった仕事である。
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発掘現場の見学ルートもあとわずかを残すのみとなった。名古屋市学芸員による説明の時間も近付いて来たようだ。<つづく>

伊蔵、登城す/その3・本丸御殿発掘現場・前編

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伊蔵は本丸へと向かう土橋の先にある表二之門(重要文化財)をくぐる。この表二之門は門扉・冠木ともに鉄板張りとなっている。両側の土塀には鉄砲狭間があり本丸内への敵の侵入を防ぐ堅固な造りとなっている。
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表二之門をくぐると“枡形”と呼ばれる空間が姿を現わす。枡形とはわざと進路を屈曲させ周りを多聞櫓で囲み敵の通過を防ぐ城郭構造の事で、大概の城跡でこの様な構造を目にする事が出来る。名古屋城内にはこの枡形が門をくぐった場所にいくつも見る事が出来る。枡形の広い空間に敵を足留めさせ全方向上部から敵に攻撃を加える事が可能な優れた先人達の知恵である。

伊蔵は枡形内を歩き先へと進んで行った。屈曲部を通過するとそこは本丸だ。
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◆本丸御殿/玄関・車寄から天守を望む
天守閣手前の広いスペースの一部が今回の目的である『本丸御殿跡地』である。発掘調査中であり本日の見学会の為、敷地内には赤いポールが置かれ通路が設けられていた。早くも見学者が通路を通って見て回っている。学芸員による説明は午前10時からとなっているのでしばらく時間がある。説明前に伊蔵はとり合えず据え付けられた通路を歩いて回ってみる事にした。
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『本丸御殿発掘現場』の敷地前には発掘関係者が今回の見学会の為に設置したテントがあり、名古屋城に訪れた観光客に『発掘見学会』のビラを手渡していた。そのテントのすぐ脇に見学通路入口があった。伊蔵は学芸員の人から前述の説明ビラとパンフレットを貰い通路へと歩を進めて行った。
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焼失前の名古屋城本丸御殿は世界遺産でもあり国宝でもある京都の二条城の『二の丸御殿』に匹敵する程の豪華絢爛さを誇ったが、二条城二の丸御殿程の規模は無い。尾張藩初代藩主徳川義直の住居として建造されたもののその手狭さから住居を二の丸に移したという事はすでに書いた。住居としての役目はなくなり将軍上洛時に使用された本丸御殿だが、実際にこの御殿を使用した将軍は二代将軍の秀忠、三代将軍家光だけだと言われている。驚くべき事にその将軍二人が使用した後、全くこの御殿は使用されていなかったという。
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発掘現場見学順路は、玄関裏にあった『中之口部屋(なかのくちべや)』と呼ばれる御殿に伴う施設の跡から始まる。この『中之口部屋』は江戸時代には存在した建物だが明治期には取り壊された。その遺構が綺麗に発掘調査されて目で確認出来る様になっていた。
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以前まで本丸御殿跡地には礎石のみ見える様に敷地には砂が全面に敷かれていたが今回の発掘調査の為に砂は全て除去されており、昭和20年5月の空襲でこの御殿が焼失した後、昭和34年に天守閣とともに本丸御殿礎石保護整備時のモルタルが剥き出しの状態となって姿を現わしていた。
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先程も書いたが実際に歩いてみるとよく分かるが本丸御殿というには少々規模が小さいという事がいえるようだ。この場所に御殿が復元されるとなるとこの天守閣前広場はかなり込入って狭くなる事だろう。本丸御殿の施設は玄関部分にある一之間・二之間をはじめ、表書院・対面所・上洛殿・御湯殿書院・黒木書院・上台所などからなる木造平家建書院造の建築物で部屋数は30を超える。これらの部屋に囲まれた中庭も四つある。
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敷地だけを見ているだけなので規模自体が小さく感じるのかもしれない。実際に復元されれば随分立派な建造物に見える事だろう。完全復元までに2008年着工から数えて最低でも15年かかる計画のこの本丸御殿。伊蔵が完全に復元された本丸御殿をこの目にするのは50歳代になってしまうという事である・・・。その時も伊蔵は歴史好きなオヤジとしてこの名古屋城に立っている事であろう。<つづく>

伊蔵、登城す/その2・名古屋城へ

『名古屋城本丸御殿発掘調査見学会』の当日土曜日の朝、伊蔵はいつもより早めに起床し名古屋城に向かう前に会社に寄り、コンビニで購入したサンドイッチで朝食を済ませてから城の正門へ続く道を歩いて行った。名古屋城へは午前9時から入場が可能だ。
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心配していた天候もすっきりと晴れて朝から暑いくらいの陽気。正門前は流石に早い時間とあって観光客は少なめであったが高齢者のツアーの一団が丁度正門から城内へと入るところであった。正門脇のチケット売場にて入場券500円を購入し巨大な正門をくぐる。DSCF6236.jpg
この正門はもともと明治43年に旧江戸城の蓮池御門から移築されたものであったが昭和20年の空襲時にやはり焼失してしまった為、昭和34年の天守閣再建と共に再建されたものである。この正門をくぐると西の丸。建物は何もなくちょっとした広場になっている。DSCF6237.jpg
西の丸の内側に内堀を隔て本丸がある。写真手前の櫓は『西南隅櫓』で重要文化財。この櫓は濃尾大地震時に崩壊し、その後宮内省によって修理復旧された。外壁に張り出した“石落し”の様子が観察出来る。西南隅櫓の遥か北側に見えているのが大天守だ。こうして眺めてみると名古屋城は巨大だ。地方の小城とは明らかに大規模で造りが異なっている。
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また大規模な城郭として有名な姫路城や江戸城(現・皇居)のような複雑な縄張り(城の設計)とは違い、整然とした配置となっている。この構造は京都の二条城に似ている。また立地もこの付近で最も高い台地の上に建てられており、城の西側に長大な幅を誇る堀を巡らして防御面においても抜群の構造となっている。これは西国大名が徳川家に対し謀反を起こし東海道を江戸へ攻め上るのを要所である尾張で防ぐという意味も名古屋城の役割として課せられていたからである。DSCF6238.jpg
しかし皮肉な事だが幕末期、江戸の徳川将軍家を守るはずべき尾張徳川家は『鳥羽・伏見の戦い』の後、藩論が『討幕』へと傾いてしまい徳川御三家の筆頭でありながら徳川宗家と戦う羽目になってしまうのである。薩長を主力とする新政府軍の進軍を名古屋城は止める事は結局出来なかった訳である。歴史というのはどう転ぶか分からないものだ。
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伊蔵は西の丸から巨大な内堀を見ている。内堀は空堀になっていてなぜか鹿が離されている。内堀の規模と深さも驚きだが見事なのは石垣の見事さも驚く。この見事な天守台部分の石垣は後でも話すが“築城の名手”として有名な『加藤清正(かとうきよまさ)』が造ったものである。
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◆名古屋能楽堂の前に建つ『加藤清正像』
名古屋城築城は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康が清須から名古屋へ遷府を決定した事に始まり、加藤清正、福島正則、前田利光をはじめとした北国、西国の諸大名に普請を命じた。豊臣恩顧の大名の経済的負担をわざと強いて力を削ぐ為だ。清正は巨大な石垣を丸太を敷いたり修羅(木製の橇の事)を用いて多くの人足を動員して挽かせた。彼等人足を元気付ける為に清正は自ら石垣の上に乗って監督・叱咤激励したという。加藤清正自身の治めた肥後熊本藩の『熊本城』の石垣もやっぱり見事なものであり、名古屋城、大阪城、熊本城は『日本三大名城』と呼ばれている。

西の丸の広場を歩いて行くと本丸へと続く土橋が見えて来た。
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橋の手前には『本丸御殿発掘調査見学会』の案内版が立てられていた。橋を渡ると表二之門という本丸への入口に建つ門がある。これをくぐれば『本丸御殿跡地』がすぐに見えて来るはずだ。<つづく>

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伊蔵

Author:伊蔵
伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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