2008-06

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『遠州浜松』への旅/その19・掛川城御殿へ

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伊蔵は掛川城天守閣を見学した後、小高い山を降りその麓に建つ『掛川城御殿』へと移動した。この御殿は藩主の公邸の役割のほか藩の儀式や藩内の政務を司る施設である。
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掛川城御殿は城域内二の丸にある江戸時代後期の建物であり、現存する城郭御殿としては京都の二条城や高知城など全国でも四ヶ所しか残っていないという大変貴重な建築物である。建築様式は『書院造(しょいんつくり)』。七棟からなり用途に応じ畳を敷きつめた20余りの部屋に分かれている。その規模は300坪(総床面積)近い。現存しない部屋もあるのでこの規模だが創建当時は330坪あったという。
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御殿の前から先程訪れた天守閣を見上げるとこんな感じになる。御殿というと大概本丸にあるものだが掛川城では二の丸にあるので天守閣とは少し離れている。
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玄関の屋根は特徴的で上向きに反り返っている。伊蔵が以前に伊勢に出掛けた際に河崎の古い町並で見かけた“起(むくり)”という屋根と同じだ。昔はこの広い玄関に駕篭が横付けされたのであろう。伊蔵は御殿の立派なこの玄関から内部へと入っていったのだった。
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部屋が畳敷きなのは当たり前だが西側の広い廊下にも畳が敷かれていて寝転んでみたい衝動に駆られてしまった(笑)外は暑かったが御殿内部は風通しが良い構造になっていて心地良くて涼しい。
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これは御殿内の『御書院上の間』藩主の対面所の役割をしていた部屋で御殿の中では一番重要な場所である。流石に京都の二条城二の丸御殿内の大広間のような豪華さと規模は無くとても質素な部屋に感じた。
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こちらは御殿の一番奥にある藩主の居室『長囲炉裏の間(ながいろりのま)』の天井の装飾。桔梗の紋と鏑矢の紋が施されている。山内一豊が掛川から高知へと国替えになった後、この掛川城の城主となったのは徳川の親藩の松平氏。そのまた後には江戸城を最初に築いた『太田道灌(おおたどうかん)』の子孫の太田氏が掛川城主となった。この家紋の装飾はその太田家の紋である。

伊蔵の御殿巡りは続く。<つづく>


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『遠州浜松』への旅/その18・東海の名城

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『掛川城天守閣』は外観三層内部四階の構造で復元の材料として選ばれたのは“青森ヒバ”という木材である。城の復元には樹齢250年~300年の木材が求められた。国産の木材を利用しての復元が願われたがヒノキでは採算が合わず国産材では復元が無理といわれていたがヒノキに匹敵する耐久性と防腐性、またシロアリ等の被害にも強いとされる“青森ヒバ”が候補に挙がりこれを使用して掛川城は復元された。
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掛川城の天守閣は天守台である石垣の高さ3.6メートル、その上の城の高さ16.18メートル、計19.78メートルと名古屋城や大坂城と比べるには余りにも規模が小さい城だが小さいなりに大きく優雅に見える様にする為の構造上の工夫が見られる。入口に付櫓を付けたり一層目の南部に東西に張り出した構造を持たせたりと外観をわざと複雑に見せる事によって天守閣自体を大きく見せている。
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最上階の望楼も広さは狭いが外観全体から見るとちょうど良いバランスで見た目もとても美しく見える。山内一豊はこの掛川城の天守閣の形を気に入っていた様で土佐(高知)へ加増転封になった際に高知城を建てる時にも掛川城のデザインを踏襲したといわれている。この外観の美しさから掛川城は“東海の名城”と称される。
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天守閣下には鉄砲狭間・矢狭間の構造も見られる。今川義元の跡を継いだ駿河の今川氏真は東から武田信玄に攻められ本拠地の駿府を脱出し自らの重臣である朝比奈氏の掛川城に逃げ込み再起を計ったが信玄と示し合わせて西から攻め上がって来た徳川家康の大軍に掛川城を囲まれ攻撃された。が、この城、篭城戦ではなかなか陥落しなかったらしい。
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城の内部に入ってみると復元されてまだ間も無い事もあって木材の良い香りが漂っていた。大木から削りだした材が複雑に組み合わされ城を支えていた。木材同士を継いである部分もあれば耐震上の問題からなのか金属板とボルトで補強して継ぎ合わせている部分も見受けられた。
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流石に鉄筋コンクリート造の城とは一味も二味も出来が違う。現代の匠が造り上げた芸術品といえよう。
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城の防衛機能の定番である『石落し』もやっぱり掛川城にもあった。石垣をよじ登って来る敵をこの隙間から石を落して防ぐのである。
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伊蔵は掛川城の二層目へと続く急な階段を登っていった。
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二層目には掛川城の歴史や徳川家康、山内一豊、武田信玄などこの城と関わりのあった戦国武将についての詳細な説明展示の他、鶴翼の陣・魚鱗の陣・車懸りの陣などの戦国時代の戦闘陣形について分かりやすく説明されていてこれはとても興味深かった。
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掛川城の最上部にある小振りのシャチホコも展示されていた。伊蔵は更に城の上部へと向かう事にした。上はいよいよ最上階である。伊蔵は木製の階段を登り最上階へと足を踏み入れてみて驚いた。狭い最上階は多数の小学生(低学年)達によって占拠されていたのである(笑)多分遠足か何かでこの掛川城を訪れているらしい。生徒達は天守閣最上階から眺める事が出来る景色や建物を東西南北に分けて答案用紙に書き込む作業をしている様であった。伊蔵は小学生を掻き分ける様にして天守閣最上階の南の窓へ。
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そこからは掛川の市街が一望出来た。戦国時代ここには一豊の整備し造った城下町が整然とした景観をもって広がっていたに違いない。
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しかしこの掛川城も現代の小学生達に掛かってはただの昔の建物のようで狭い最上階は非常に騒がしく落ち着かなかった。伊蔵は最上階で色々な想いに耽りたかったがそれは残念ながら叶いそうになさそうだった。長居は無用と退散する事に・・・。
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『山内対馬守一豊』が造り上げた『掛川城』。復元された城だが見る価値は十分にある名城であった。上の画像は山内家の家紋である“三ツ柏紋(丸に土佐柏)”。この家紋は後年土佐藩出身の『岩崎弥太郎』(三菱財閥の創業者)が自家の家紋(三階菱)と組み合わせる事によって三菱のスリーダイヤモンドマークになったといわれる。
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro11.html

次に伊蔵は天守閣下にある現存する城郭御殿として有名な『掛川城御殿』へと向かう事にした。もうしばらく掛川城を巡るレポは続きます。<つづく>


『遠州浜松』への旅/その17・天守閣へ

少々『山内一豊』の話が長過ぎました(笑)そろそろ城自体の話をしなければ・・・・。
伊蔵は掛川城天守閣への道を歩いていた。
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この『掛川城』は日本初の本格的な木造の復元天守閣として知られていて1994年(平成6年)に完成した。日本の100名城の一つになっている。木造での復元は鉄筋コンクリートでの復元よりも大きな費用が掛かるらしい。
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ちなみに掛川城の場合、鉄筋コンクリート製での復元では約6億5千万円掛かると算出された。結局木造での復元に至り、その復元に掛かった費用は約倍の12億円に上ったそうである。この掛川城の復元にあたっては東京から掛川市に転居して来たとある資産家の老婦人が掛川市に1億5千万円を寄付し最終的に合計5億円の寄付をされ、残りの費用は掛川市民の寄付によって完成されたのだという。
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伊蔵はいよいよ掛川城天守閣へ続く石段を登り始めた。復元されたのが平成になってからとあってかなり見た目も新しい城だが鉄筋コンクリート造で復元された城に見られるような一種のわざとらしさのようなものは不思議と無い。これは城が木造で造られているという事と城自体の構えとそのデザイン、規模の小ささからきているらしい。

石段を登り門をくぐりしばらく歩くと入館券を購入出来る案内所があった。天守閣と御殿の共通入館券300円を購入し先を急ぐ。この案内所のすぐ脇が城の本丸に当たるが今は何も残されてはいない。
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本丸から天守閣までは曲がりくねった石段を登って行く。まるでこの小高い山の稜線に沿って作られている様な石段であった。石段の先には白亜の天守閣が!
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規模は小さいものの見るからに城らしい城という感じで『掛川城』はとても美しい。もうしばらく伊蔵の『掛川城』巡りは続く。<つづく>




『遠州浜松』への旅/その16・山内一豊(掛川城主~土佐藩初代藩主)

『山内一豊』と『掛川』との関わりは秀吉が関東の北条氏を滅ぼして天下を統一して後の事になる。徳川家康の力を恐れていた秀吉はまず彼を先祖代々の領地であった三河と後に手に入れた遠江・駿河の封地から遠く関東の地へと移し、自分の住む大坂から遠ざける行動に出た。関八州250万石の広大な領地を家康は手に入れた訳で一見これは「栄転」にみえるが彼等三河武士等からしてみれば意図的に中央の政治の世界から遠ざけられたという事でありむしろこれは「左遷」であった。

当の家康もこの事は分かってはいたが無駄な戦いは行なわない辛抱強い彼はこの転封にもめげずにジッと耐え忍ぶ事にし、ドッカリと関東に腰を据えて力を十分に蓄える事にした。いずれ自分より先に秀吉は死ぬ。その時までじっと待ち、関東の地で実力を蓄えておく方が今は得策だと考えたのである。

秀吉は家康を関東に封じただけでは安心せず大坂から関東を結ぶ東海道の要所要所の城に自分の配下の武将を数珠を並べるように配置して万が一家康が西上するような動きをみせた場合の牽制とした。その東海道の要所のひとつ『掛川』に配置されたのが『山内一豊』その人だったのである。彼はそれまで長浜(現在の滋賀県長浜市)で2万石の領主をしていたが秀吉の天下統一によって彼は遠江掛川6万石の領主となった訳だ。
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この『掛川城』は元々駿河の守護大名今川氏の遠江支配の拠点として築かれた城であったが戦国期を通じての幾多の戦乱で荒れ果てていたのを一豊がこの地の領主になると城を大改築、城下町も整備しこの時初めて天守閣も造営した。

関東の家康に対する東海道の守りは万全だと思っていた秀吉の目算は彼の死後脆くも崩れ去る。秀吉には秀頼という跡取り息子がいたものの次の天下は徳川家のものとその実力面から言っても誰がみても明らかだった為、自家の温存の為には手段を選ばず強い者に従って行かねばならないという戦国の悲しい性に一豊はじめ東海道の要所に配されていた大名も否応なく飲み込まれてしまったのだった。

彼は手の平を返した様にといっては可哀想だが関ヶ原の戦いの前に家康にいち早く自分の城である『掛川城』を差出しこの城を家康の西上の役に立てて欲しいと申し出たのである。この申し出を聞いた他の東海道を守っていた武将達もこぞって自分の領地を家康に差出したという。かくして秀吉が作り上げた東海道の守りは一挙に崩れ、家康本隊は東海道を悠々と西上し、予定戦場である濃尾平野まで大軍を進める事が可能になったのである。
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『関ヶ原の戦い』は家康の東軍の勝利に終わり、いち早く東海道の自分の城と領地を差し出した山内家はその功により土佐一国20万石を与えられる事となった。移封先の土佐では土着の武士との対立、戦いの中で様々な苦労しながらも山内一豊は領国経営をこなし、江戸時代を通じて土佐藩山内家は幕府から改易や転封もされる事なく明治の世まで続いたのである。<つづく>


『遠州浜松』への旅/その15・山内一豊(十両の馬の話)

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『掛川』という地を語る上で『山内対馬守一豊(やまうちつしまのかみかずとよ)』という人物は欠かせない。この人物は戦国時代、織田家、豊臣家、徳川家と主家を上手く渡り歩き、ついには土佐(現在の高知県)20万石の大守となった人物である。その彼の出世の影には彼の妻である『千代(ちよ)』の“内助の功”があった話は有名だ。
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山内一豊の出身地には諸説あるが尾張国葉栗郡黒田(愛知県一宮市木曽川町黒田)だといわれている。彼の父である『山内盛豊』は織田氏に仕えていた。だがこの当時の尾張の『織田家』は岩倉織田氏(尾張上四郡)、清洲織田氏(尾張下四郡)のふたつに分裂して互いに争っていた。

山内家はその内の岩倉織田氏の家老として清洲織田氏と戦っていた訳だが、やがて清洲織田家の家老の一家(弾正忠家)に過ぎなかった『織田信秀』(信長の父)が主家よりも力を凌ぐようになり子の信長の時代になって主家である清洲織田氏を討ってしまう。まさに下克上の時代である。『織田信長』はその後も同族の内紛を治める為に尾張国内で様々な戦いを強いられた。岩倉織田家もその戦いの中で信長に敗れてしまい当然家老として仕えていた山内盛豊もその戦いの最中に討死、山内家は没落してしまう。その後『山内盛豊』の子である伊右衛門(いえもん/後の一豊)は『織田信長』に仕える事になった。

この信長と一豊とその妻・千代との関わり合いの中で有名な逸話が“十両の馬”の話だろう。この頃の信長は琵琶湖東岸に壮麗な『安土城』とその城下町を建設中であった。城下にはたくさんの様々な物や人が溢れていた。そんな中、一豊は城下の馬市で是非手に入れたいと思う馬に出会う事になる。馬商人にその馬の事について聞いてみると、これは奥州産の馬で黄金十枚の値打ちがあるという・・・その値段に織田家の家中もついにその馬を買わなかったという。

当時の一豊は羽柴秀吉の配下で二千石の身代であったが何分多くの家来を抱えていた為にそんな大金を捻出する事は普通に考えて不可能だったのだ。しかしどうしてもその馬を手に入れたい一豊は妻・千代に相談したところ彼女は黙って十両の小判を差し出したのである。その金は彼女が実家・美濃三人衆のひとつである不破家(伯父の家ではあったが)から嫁入りの持参金として山内家に嫁ぐ際に一緒に持って来た金であった。伯父には

『婿殿の大事の時にしか使ってはならぬ!』

と厳しく言われて今まで一豊にも内緒にしておいた大切な大金であった。
織田家の家中も手を出しかねた高価な馬を夫である一豊が手に入れたとあれば絶対に評判になり夫自身の株も上がると考えた妻・千代はこの機を逃さずその金を思い切って使う事にしたのである。かくして一豊はその馬を手に入れたと同時に信長のみならず織田家家中の者達の話題に登る程の“顔”となった。

う~む・・・現代社会ではこのような妻はとっくに絶滅してしまっているなぁと伊蔵は思うのだった。ホストクラブでナンバーワンホストに何十万、何百万を貢ぐ人妻はいくらでもごろごろいるものの自分の夫の功名の為にこれ程の大金を出そうと考える女性はもはやおらんだろう。良い嫁さん貰ったな一豊(笑)<つづく>

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プロフィール

伊蔵

Author:伊蔵
伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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