2010-07

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

可児川・豪雨の爪跡(2)

kaniooame4_convert_2#22B3D0
可児川は岐阜県可児市内中心部を東西に緩やかに蛇行しながら流れる木曽川水系の一級河川である。可児市の西端部で木曽川に合流している。可児川へは市内を流れる極々小さな川がいくつも合流している。今回豪雨によって川の水が溢れ出た地点は木曽川合流地点から上流に遡る事約2キロの地点、戸走橋のすぐ下流であった。
kaniooame15_convert_#22B381
戸走橋から上流部については川沿いにはしっかりとした護岸工事が済んでいるが下流部は通称“鬼ヶ島”という川の中に大きな中洲があり戸走橋のすぐ下辺りで川の流れが南北二つに分かれている。
kaniooame14_convert_#22B37C
この中洲はその名から察せられる様に昔からこの付近には桃太郎伝説があり、中洲自体が市内の景勝地・史跡のひとつとなっていて河川改修は自然景観を残すという形が優先された為かほとんど行なわれていなかった。
kaniooame5_convert_2#22B3D4
“鬼ヶ島”で二つに分かれた川の流れの本流はどちらかというと南側で深い谷の中を水が流れる形になっているが、北側は川底も浅く普段は細い流れで川の水もチョロチョロとしか流れていない程度である。
kaniooame19_convert_#22B392
ここは川底が低い上に堤防も造られてはおらず川の流れとそのすぐ脇の土地との高低差はほとんど無いに等しい。その北側の水路に今回の局地的豪雨によって大量の水が流れ込んだので簡単に水が溢れてしまった。
kaniooame3_convert_2#22B3CB
中洲“鬼ヶ島”の長さは約200m程あってその先でまた川の流れは一つになる訳だがそのちょうど合流地点付近の北側から水が大量に溢れ出た。溢れた水は川のすぐ脇にあった平坦なトラック駐車場へと流れ込み、何台ものトラックを押し流しながら更にその先にある市道へと達した。

この市道は名鉄広見線の下をくぐる形で立体交差(アンダーパスと呼ばれる)していた為、水が一気にこの低いアンダーパス内へと流れ込んだ。その急速な水の流れに沿う形でトラックも一緒に流れて行き名鉄広見線の架橋のガードで塞がれる形で何台も同じ場所で折り重なったのだった。

いつもなら穏やかな表情を浮かべているこの可児川へと伊蔵は出掛けてみた。可児川の溢れた現場は自宅から歩いても20分そこそこという距離でさほど遠くはない。
kaniooame9_convert_2#22B366
水が溢れた反対側(南側)は普段とあまり変わらない風景だった。川沿いには桜の木が等間隔に並んでいる。その手前は青々とした田が整然と区画されていて緑の色が目に突き刺さる様に鮮やかだ。
kaniooame1_convert_2#22B3BE
途中、可児川へと注ぐ小さな支流のそばを通り掛かった。この川も名鉄広見線の下をくぐる川で普段の水量は少ないのだが増水時の水かさがどの様な様子だったかどうかは橋にこびり付いた枯れ枝や草で容易に分かる。恐らく橋の下スレスレもしくは橋に接するまで増水していたに違いない。この様な状態では電車も不通になる訳だ。
kaniooame8_convert_2#22B361
次に水が溢れ出たトラック駐車場を対岸から眺めてみる。左側の橋は名鉄広見線の架橋で橋桁付近には土嚢が積まれ補強が施されているのが分かる。樹木を観察すると川の下流方面に向かって木々が斜めに傾いているのが分かる。先にも記した様に堤防は整備されていない。川の流れが自然に造り上げた段丘しかそこにはない。
kaniooame2_convert_2#22B3C2
水が溢れた場所を観察するとトラック駐車場の土地の高さと川の流れる場所の高低差はほとんど無く、少し増水しただけで簡単に水はその高低差を乗り越えて溢れてしまうのが分かるだろう。
kaniooame6_convert_2#22B3D8
伊蔵は可児川を跨ぐ戸走橋を渡って対岸に行ってみる事にした。対岸にある一件のコンビニの駐車場には災害から数日が経ったこの日も東海テレビ、中京テレビの中継車が二台仲良く待機中だった。例のアンダーパスのある市道に沿って西へと足を進めた。
kaniooame17_convert_#22B38A
水が溢れ出たトラック駐車場では何台かの重機が動き回り駐車場内を整備中であった。川の水が引いた後というのは濁流が運んで来た泥が残される。これが熱い日射しによって蒸発し微細な砂粒に変化するので付近は非常に埃っぽく、何より周辺一帯はドブ川の様な臭いが漂っていた。駐車場内には災害時に折り重なる様に流れて行ったであろうトラックが整然とその無惨な姿を晒していた。運転席がもげてしまっているトラックもある。
kaniooame16_convert_#22B385
運転席や荷台は破損していて濁流が上流から運んで来た草や木の枝が無数に絡まり蹂躙していた。廃車になるであろうトラックの数は相当数に上るだろう。これは凄い損害である。
kaniooame18_convert_#22B38E
トラックが折り重なっていた例の市道のアンダーパス付近に行ってみた。現場はすっかり片付けられ、水も引きすでに普通にクルマが通行可能な状態に復旧していた。こうしたアンダーパス(立体交差・高架下の道路)では周辺の土地よりも低くなっている為、冠水時の車両事故が全国至るところで起きているという。今回の可児川の氾濫でもトラック駐車場に溢れた水が市道まで達し、一気にこの低いアンダーパスに水が怒濤の如く流れ込み高架下の水かさは一気に増えたという。
kaniooame20_convert_#22B396
目撃者によると水位はみるみる内に4mにも達し、高架下はあっという間に水で埋まってしまい駐車場からは貨物室の浮力で次々と浮いたトラック群がアンダーパスに流れ込む水の水流によって同じ場所に押し流されて来て結果的に将棋倒しの状態で折り重なったらしい。高架下にはこうした浸水時に危険を知らせる赤色灯や現場の状況を知らせる通報システムが整備されていたが今回これらは正常に働かなかったらしい。これは後々問題になりそうである。
kaniooame21_convert_#22B39B
駐車場にはトラックの他にも普通乗用車や軽自動車なども駐車していたがこれらもことごとく水に流されて付近の田んぼの中に点々と置き去りの状態になった。それらクルマもトラックと同じ様に無惨な姿を晒していた。
kaniooame22_convert_#22B39F
上の画像の右側の森が可児川の中洲(鬼ヶ島)そして細い水の流れが可児川。堤防は無い。ちょっとした増水で水が簡単に溢れてしまう場所である事が分かる。今回の災害でこの点は追求されるに違い無く、この場所は河川改修が進められるかもしれない。
kaniooame23_convert_#22B3A3
この可児川の中洲『鬼ヶ島』付近は伊蔵が子供の頃の遊び場であった。親父に連れられて釣りに初めて出掛けたのもこの川だった。夏休みなどは泳ぎに出掛けた事もあった。その当時はこの川は増水する事はあっても氾濫するという事はほとんど無かったように思う。雨の降り方も当時と今とでは全然違う。

これも地球温暖化の影響なのか・・・。想い出の場所が河川改修という形で変貌してしまうのは悲しい事だがこれも現在の状況から考えると仕方が無いことなのかもしれない。


スポンサーサイト

可児川・豪雨の爪跡(1)

322566_c450_convert_#22B3BA
2010年7月15日(木)、局地的な大雨によって伊蔵の地元である岐阜県可児市を流れる『可児川(かにがわ)』が氾濫しその被害が全国的に報道された。

当日の伊蔵は名古屋市内で遅い時間に仕事を終え、名古屋鉄道を利用して可児に帰宅途中であったが犬山駅において大雨の影響で可児市内3万7千世帯、約10万人に避難勧告が出されている事を知った。約40年間可児市に住んでいるが大雨でこれほどの大規模な避難勧告が出された事は記憶に無い。

名鉄犬山駅から可児方面にのびる名鉄広見線は不通との事で帰宅を急ぐ人々は犬山駅で多数立ち往生の状態であった。午後10時に名古屋の職場を出た伊蔵は遅れに遅れて犬山駅に辿り着いたのは午後11時半頃であった。犬山駅で立ち往生の人々は自宅へ電話し、家族にクルマで犬山駅まで迎えに来てもらうかタクシーで帰宅するしか方法が無い状態。伊蔵もタクシーを利用して帰宅するしか方法がなかったのだが、すでに駅前のタクシー乗り場は多数の客で長蛇の列が出来ておりいつになればタクシーが来るのかまたいつになったら帰宅出来るのかすら分からなかった。

名鉄犬山線と広見線は名鉄の数ある路線の中でも利用客が多く、終電の時間になってもかなりの客が利用している実情を考えると名鉄は代行バスを出すべきであったろう。また広見線が不通になったという名鉄側の情報開示も遅かった。この件については多数の乗客も同意見であり、犬山駅で駅員に乗客が問いつめる場面も見かけた。結局期待の代行バスは出ず仕舞い。タクシーもいつになったら乗れるのか分からなかった。待っているだけイライラしそうだったので伊蔵は意を決して犬山駅から自宅まで歩く事にした。

真っ暗な県道を歩くのはかなり不気味であった。途中いくつかの川を橋を使って渡ったのだが川の水位が尋常では無い事に驚いた。かなりの雨量がこの辺りに降ったのだろうと想像が出来た。伊蔵が歩く県道も所々田んぼの水が溢れて道路上に冠水している場所があり、仕方無く迂回せざるを得なかった。そうしてトボトボ約1時間半かけて午前二時に無事に家に帰還した。午後10時に名古屋の職場を出てから四時間後の帰宅となったのである。
322559_c450_convert_#22B3AD
次の日は早朝から空を飛び交う報道ヘリの爆音で目が覚めた。どうやら隣の八百津町では土砂崩れ、可児市では可児川が氾濫して甚大な被害が出ているらしい。三名の方がクルマに乗ったまま濁流に飲み込まれ行方不明だという。幸い伊蔵が住んでいる地区は山の上の高台に位置している為、洪水の心配は無く自宅も無事であった。名鉄広見線も16日午前中は不通のままであった為、午後からの職場出勤となった。
322560_c450_convert_#22B3B2
可児川の被害については全国的にニュースで報道された通りの有り様。氾濫後の18日には甚大な被害を重く見た管直人首相も可児市を視察に訪れた。その次の日の19日、伊蔵は可児川の氾濫した現場を訪れてみる事にした。<つづく>



小田原・箱根への旅/その13・箱根関所(2)

DSCF0531_convert_201#22A32B
さぁ早速『箱根関所』に入ってみよう。箱根関所は旧東海道の街道上に建てられている。江戸側と京都側にはそれぞれ二つの関所の出入口である立派な構えの門があり、江戸側の門を『江戸口御門』、京都側を『京口御門』という。伊蔵は『京口御門』側から関所内に入る事になった。
DSCF0532_convert_201#22A32E
幕府の役所というだけあってやはり重厚な造りで威圧感を感じる。いつの世でもそうだが国家機関の重要施設というものはどこかこういう得体の知れない威圧感を漂わせている。重厚感はその真っ黒な建物の塗装からも感じられる。関所の構造物は“渋墨塗”という塗装が施されており、これは柿渋に松の木を焼いた煤を混ぜたもので塗装されたもので建物の化粧という役割の他に虫除けの効果もあるという伝統的な技術なのだそうだ。
DSCF0533_convert_201#22A333
この箱根関所の復元は江戸時代末期に行なわれた解体修理の古い記録の解読とそれを元にした発掘調査に基づいて行なわれた。現在そのほとんどの復元が終わっている感じであった。
DSCF0535_convert_201#22A33B
関所の敷地は関所での取調べを待つ為に設けられた“千人溜(せんにんだまり)”という待合い広場のような区画(江戸口、京口の両方に設けられている)と関所の主要な建物である番所と呼ばれる施設が建ち並ぶ区画に分かれている。関所施設の周囲には“関所破り”を防止する為に柵が設けられている。関所破りの罪は江戸時代の刑罰の中でもかなり重くて死罪(磔刑)と定められていたという。
DSCF0538_convert_201#22A34B
箱根関所にはこうした関所破りや規則に従わない者を懲らしめる為の“三ツ道具”と呼ばれる捕り物道具が立て掛けられている。左から『袖搦』(そでがらみ)、『突棒』(つくぼう)、『刺股』(さすまた)という。刺股は現在でも警察の機動隊等でほぼ同じ形で使用されている。
DSCF0536_convert_201#22A343
このように関所の敷地の構造を見てみると現代でいうところの国境検問所・出入国管理事務所に非常によく似ている。江戸時代は勿論、幕府が日本という国の政治を動かしていたのだが、全国に散らばる藩の自治権については細々あまり口を出さずそれぞれの藩の宰領に任せていた事が多分にあった。当時は小さな国、つまり藩主を小国の王とした諸侯国(藩)の連合体であり、それをまとめあげていたのが江戸幕府だったわけである。藩から別の藩への旅は国から国への移動に等しかったのだからこうした関所が国境の検問所然とするのは当然の事なのだった。
DSCF0541_convert_201#22A354
箱根関所を構成する建物である大番所や足軽番所では当時の関所での仕事の様子が人形を設置して分かりやすく解説されている。関所の役人は小田原藩士が勤めており一ヶ月交代の単身赴任であったという。この辺り現代のお役人やサラリーマンとなんら少しも変わらないというところが面白い。
DSCF0542_convert_201#22A357
公儀の仕事に従事するだけに彼らには様々な細かい決まり事があったそうである。現代人と同じく堅苦しい仕事に息苦しさを感じストレスも溜った事だろう。そのような時には我々現代人と同じ様に、夜に箱根の宿場町に繰り出してはお酒など飲んで上司の悪口を肴に憂さでも晴らす事もあったのだろうかと思うと楽しくなって来る(笑)
DSCF0540_convert_201#22A34F
関所の主要な建物を見て回った後、伊蔵は関所の施設全てが一望に見渡す事の出来るすぐ脇の山の上に設置された『遠見番所』へ行ってみる事にした。足軽番所の建物の裏手から山の斜面に沿って石段を登ると山頂に小さな二階建ての山小屋の様なものがある。これが『遠見番所』で当時は足軽が昼夜分たず交代で東海道の街道沿いや芦ノ湖を監視していたという。『遠見番所』からの景色は素晴らしかった。眼下には箱根関所、その、向こうには芦ノ湖と雄大な箱根外輪山が眺める事が出来る。

当時は一体幾人の旅人がこの箱根関所を通過していったのだろう。当時はクルマも電車も無い。大部分の旅人は自分の足で歩いて旅をした。ちょっと裕福な人は馬や駕篭を使ったかもしれない。旅がレジャーと化した現在とは違い当時の旅は道中どんなトラブルに巻き込まれるか分からず、江戸時代という平和な時代だったとはいえ100%安全が保障された旅ではなかったに違い無い。それでも日常の生活を忘れて遠くに旅に出てみたいという欲求は当時の人にあったのは我々現代人と何ら変わらない。様々な旅の目的を持ってこの箱根関所を通過して行った当時の多くの旅人の気持ちに思いを馳せる事は、同じ旅人である伊蔵にとってとても楽しい事であった。<つづく>




小田原・箱根への旅/その12・箱根関所(1)

810414_convert_20100#22A40D
箱根海賊船ビクトリー号での芦ノ湖遊覧。約30分程で目的地の『箱根町港』に到着した。伊蔵を乗せたビクトリー号は桟橋手前で船体を180度回頭、船尾を後にしてからゆっくりと桟橋へと接岸したのだった。
DSCF0527_convert_201#2297FB
箱根町港にはグリーンの船体が映える『バーサ号』も碇泊していた。桟橋上には『桃源台港』へ向かう観光客が行列を成していた。伊蔵はここまで運んでくれたビクトリー号から外に出て桟橋上を箱根町へと向かった。箱根町港前には土産物屋やレストラン、貸しボート乗り場や箱根登山バスの乗り場等がある。
hakoneekidenM_conver#22A3EF
またここは箱根駅伝往路のゴール地点である為、『箱根駅伝ミュージアム』なる施設もあったりする。箱根登山バス乗り場の向こう側には東西に国道1号(東海道)が走っている。昔はこの辺りが“箱根宿”と呼ばれる宿場町であった。
DSCF0530_convert_201#22A325
この場所から西へ向かい外輪山をを登り切った場所が東海道の難所として知られている『箱根峠』である。伊蔵は箱根峠とは逆に国道1号を東へと進み『箱根関所跡』へと向かった。関所へ至る国道1号は多くのマイカーや観光バスなどで大渋滞を引き起こしていて進むスピードもノロノロであった。その国道沿いをしばらく歩くと箱根関所の入口が見えて来た。
DSCF0528_convert_201#22A31D
伊蔵がはるかな昔、中学生時代の修学旅行でこの箱根関所を訪れた際には復元された関所の建物は山側に建てられていたのだが現在は江戸時代に本来建っていた場所(湖畔側)に移っており、新たに復元され規模も大きくなっている。箱根といえば“関所”というくらいの観光スポットだけに観光客やバイクツーリングで立ち寄るライダーも多い。箱根関所の観覧料金は箱根関所資料館との共通券で大人500円だが、箱根フリーパスを持っていれば100円引きの400円となる。
DSCF0529_convert_201#22A321
箱根に関所が置かれた歴史はかなり古く、律令時代(7世紀後期~)にはすでに設置されていたという。箱根の他にも同時期に伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、越前の愛発(あらち)関などにも置かれた。当時は軍事的性格から設置された防御拠点という意味合いが強かった。江戸時代に入ると江戸幕府は全国に通づる各街道を整備するとともに重要な場所に関所を設けた。箱根関所の役割は江戸の防衛の為に街道を使って出入りする旅人の検査だけでなく江戸に出入りする様々な荷物の検査等を主に行なっていた。
sankinkoutai.jpg
また当時は各藩の大名の妻子は常時江戸に人質として捕られており大名が幕府に対して謀反を起こさないように配慮されていた。だけでなく各藩の大名は一年置きに自らの藩と江戸の間を往復し一定期間を江戸で過ごさねばならず(参勤交代)、その旅費と江戸滞在費は全て自前で賄わなければならなかった。莫大な経済的負担を藩に課す事によって謀反を行なうだけの経済力を奪ってしまうというシステムが幕府によって組まれていたのである。
DSCF0534_convert_201#22A338
この江戸に人質になっている大名の妻子らの国元への逃亡を防ぐという役割もこの関所が担っていた。また大量の武器が江戸に持込まれるのを厳重に監視する役割も与えられていた。これは一般に『入鉄砲と出女(いりでっぽうとでおんな)』といって関所の最も重要な役割であった。

この関所を無事に通過する為には“通行手形”というものを持参しないと通過出来ないと伊蔵は昔から思っていたがそうでもなかったらしい。厳しい吟味はされるものの男の旅人等は無手形でも通過出来たらしいのだ。ただ前述した『出女』を取締まる事から特に旅をする女性に対して関所での吟味はかなり厳しくされたようである。
DSCF0537_convert_201#22A347
女性の旅人にはこの関所で『人見女』または『改め婆』という女性専用の吟味役を行なうちょっと恐い婆さんがおり、髪の中まで徹底的に調べられた上で怪しい者でないと許可が下りれば関所を通過出来たという。

それでは江戸時代の防衛的・警察的役割を果たしていた『箱根関所』を紹介していこう。<つづく>




NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

伊蔵

Author:伊蔵
伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。