2017-10

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港・横浜OFF会(その6・横浜の歴史について)

なかなかメインの『OFF会』の話題に辿り着く事が出来ない。
申し訳無いがお付き合い願いたいと思う。

『赤レンガパーク』を後にして万国橋を渡り、横浜市中区の街に入った所まで書き進めたが、東海地方に住む伊蔵にとって横浜という街は出掛ける事も少なく、馴染みが無い為、少し『横浜』という港町について調べてみようと思う。
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『横浜』が世界的な大港湾都市となった歴史的始まりは、1853年(嘉永6年)の6月に『マシュー・カルブレース・ペリー』が率いるアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻が鎖国政策をとっていた江戸幕府の治める日本(現在の神奈川県横須賀市の浦賀沖)に来航した事に始まったといってよい。

『太平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず』

当時流行した茶葉の銘柄である「上喜撰」と、江戸湾に突如現れた「蒸気船」をかけたこの有名な狂歌が言い伝えている通り、この『黒船来航』は鎖国日本におけるまさに一大事件であった。ペリーは幕府に条約締結をこの時迫ったのだが、幕府側に『一年間だけ待って欲しい』といわれ一度は引き上げた。
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翌年の1854年(嘉永7年)に再来航したペリーは幕府によって武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(現在の横浜市中区)に用意された応接所に部下約五百名を伴って上陸、幕府との交渉の末『日米和親条約』を締結することに成功する。

この条約によって日本はアメリカ船の物資補給の為、伊豆下田と箱館(函館)の二港の開港する事、下田へのアメリカ人領事の赴任を認めるなどの要求をのんだ。
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この下田にアメリカ総領事として『タウンゼント・ハリス』が赴任して来る。彼はアメリカの本来の目的であった日本との通商条約を結ぶ為、奔走しはじめる。幕府側はアヘン戦争などに見られる『清国』の状況も知っていた為、このまま条約締結を拒めば、欧米列強の日本侵略の懸念が考えられる事から、幕府の大老『井伊直弼』は京都朝廷の勅許を得ずにこの条約の締結に踏み切った。この条約が『日米修好通商条約』である。

この条約で、外国人の居留を認める事、神奈川・長崎・兵庫・新潟の開港が決められたが、アメリカ側が神奈川で開港を求めていた地は、当時すでに栄えていた『神奈川湊(かながわみなと)』の事だったのだが幕府側は外国人居留地を遠ざける為、当時『横浜村』と呼ばれていた半農半漁の地を開港地としたのだ。この事が『横浜』の街の将来を決定付けた。

その後の横浜は明治維新を経て『国際港』としての性格をますます強くし、世界有数の貿易港として大発展していったのだ。<つづく>

★余談だが・・・★
あるニュースの一特集で見たのだが、日本開国の功労者の『ペリー』だが、当のアメリカ人にはあまり知られていない存在の人物だそうである。彼は64歳でニューヨークで亡くなったが、彼の墓に詣でる人はほとんどいないという・・・。また彼の住んでいた家は現在、日本人が経営する『マンガ喫茶』になっているという。なんとも不思議な日本との因縁である。
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お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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