2017-10

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伊蔵、上洛す(その14・時代の改革者達)

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『先斗町通』北の出口から左折して伊蔵は再び高瀬川沿いの『木屋町通』へと戻って来た。この辺りの木屋町通りには京都市電『木屋町線』が走っていたという。今でも道路の形状等を見るとその面影が残っている部分があるそうだ。
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伊蔵は木屋町通を北上し、『御池通(おいけどおり)』の大きな道路へ出ると左折して京都ホテルと京都市役所(上の写真)を右手に見ながら『寺町通(てらまちどおり)』へと進入した。寺町通に入るとすぐ左手に『本能寺』の門が見えて来る。
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『法華宗本門流大本山本能寺』という。日本史上有名な事件『本能寺の変』で誰もが知っている寺である。天正10年6月2日(1582年6月21日)早暁、上洛中の織田信長が京都での宿舎として使用していた『本能寺』において家臣の明智光秀の謀反を起こされ自刃した事件だ。
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だが今、伊蔵が訪れている『本能寺』はその『本能寺の変』の現場ではない。なぜならこの『本能寺』という寺は何度も京都の町を移転しているからである。『本能寺の変』の当時この寺があった場所は四条西洞院蛸薬師付近。現在その場所には石碑が建っている(ちょっと前まではその場所に「本能小学校」が建っていたが廃校になってしまった)。現在の位置に移転したのは豊臣秀吉の時代の事である。
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伊蔵が今年の4月に滋賀県の安土町の『安土城址』を訪れた記事は以前にこのブログにも掲載した。その時にも書いたが『織田信長』という人物は群雄割拠する戦国時代に終止符を打つ為だけに生まれて来たような人生であった。彼の性格的特性として『物事に非常に合理的』な考え方をするという事がよく挙げられる。利用して便利な物は人物、政治制度、兵器、宗教、文化等様々なものに至るまで利用し尽くしたが、逆に役に立たない物は徹底的に排除するやり方で勢力をのばしていった人物である。既成の概念や伝統なども役に立たないものに対しては容赦が無いやり方で廃絶や弾圧・改革を断行した。

それが果たして本当に戦さの無い世の中を実現し平定するという『天下国家・万民』の為であったのか信長自身の『個人的趣味・野望』であったのかは分らないが、確実に時代を転換させたという点においては彼が行なった業績は賞賛されるべきものであろう。

しかし如何せん、彼の改革は急激すぎた。彼のやり方にとても付いていけなかったのは旧体制に身を置いている人物だけではなく、彼自身の家臣団の中にも居た。一番信頼し厚遇していた家臣の『明智光秀』に彼は裏切られた。
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信長が光秀を家臣に取り入れたのは光秀自身が『足利義昭』を将軍にする為に諸国を渡り歩き、有力な戦国大名の力を借り、今は廃れてしまった室町幕府を昔の形に再興したいと考えていた事が信長にとっては自分の力を増大させるにあたり光秀は十分な利用価値があると目ざとく悟った為である。光秀にとってはこの方ならばきっと室町幕府を再興してくれると思い信長を見い出したときは将来に希望をきっと持っていた事だろう。

その後光秀は信長の家臣になったもののいつしか信長との仲は微妙になっていった。利用価値の無くなった足利幕府を滅亡させただけでなく、比叡山の焼き討ち、恵林寺での快川和尚(心頭を滅却すれば、火もまた涼しと言った人物)の残虐な殺し方(寺院ごと和尚を焼き殺してしまった)など伝統や文化にひとかたならぬ敬愛を秘めていた光秀にとって信長の行き急いだ『改革』は強烈なストレスとなっていたのは間違いが無いだろう。

歴史を広い視野で見れば信長の行なった事も理解出来る。だが逆に光秀の苦しみも伊蔵はよく分かる。だがここは伊蔵は後世に生きる人間であり、その後の歴史がどのように進むのかを知っている立場であるからであって、当時の彼等のやり方や考え方のどちらが正しいという事をとやかく言えまい。
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さて伊蔵が訪れた『本能寺』の境内の本殿はかなり大きくて立派だった。現在はビルの谷間に囲まれてしまっている境内だがその昔の寺域はかなり巨大な規模であったらしい。『本能寺の変』の後、この地に移されてからも度々火災にあい、現在の建物は昭和になって再建されたものだそうだ。
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本殿裏には信長の廟があった。伊蔵の他にも訪れている人達が結構いた。それだけ信長に人気があるという事だろう。
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次に伊蔵が向かったのは『京都ホテル』。鴨川の項でも書いたがこの『京都ホテル』の建っている場所は『長州藩邸』があった。『長州藩(ちょうしゅうはん・現在の山口県)』は毛利氏が治めていた藩である。毛利家は戦国時代、安岐国(広島県西部)の小さな国人領主にすぎず、山口の戦国大名『大内義興(おおうちよしおき)』と島根の『尼子経久(あまごつねひさ)』の大勢力に挟まれていた。大内氏と尼子氏はたがいに争っていた為、両者の領地に挟まれる形の毛利氏は大変苦しい立場にあった。
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そんな中、毛利家当主となった『毛利元就(もうりもとなり)』(彼は次男であったが父や兄が酒害で亡くなった事で当主となった)はその謀略の才を生かして窮地を次々に乗り切り続け、ついに中国地方最大の大大名となった。しかし孫の輝元の時代、関ヶ原の戦いで西軍の名目上の総大将に担ぎ上げられた為、戦後徳川家康からその責任を問われ、周防国・長門国の二ヶ国に減封されてしまう。

しかし幕末期この小さな藩は再び歴史の脚光を浴びる事になる。領地を減らされ経済状態が悪かったこの藩は江戸時代、積極的に産業を興し様々な政策や改革を行なっていて幕末期には日本の藩の中でも最も富裕な藩に変貌を遂げていた。自然とこの藩に生まれた人達は革新的な考え方に染まっていくらしく、幕末に沢山の偉人を輩出した。その何人かを挙げてみると

●吉田松陰(よしだしょういん)
幕末期の長州藩の思想家・教育者。『松下村塾』を開き、後の明治維新の指導者となる人物を多数育てた。大老井伊直弼が行なった『安政の大獄』で捕われ、斬首される。

●高杉晋作(たかすぎしんさく)
長州藩の尊王討幕志士。幕府使節随行員として中国『清』に渡り、かの地が欧米列強によって植民地化されているのを実見し、日本をこのような状態にしてはならないと強く思う様になった。身分の枠を関係なく徴兵した民兵組織『奇兵隊』を創設した事で有名。第二次長州征伐でも活躍したが肺結核で亡くなった。

●木戸孝允(きどたかよし)
明治維新の元勲。薩摩藩の西郷、大久保とともに『維新の三傑』と呼ばれる。幕末動乱期京都で活動していた頃の名は『桂小五郎(かつらこごろう)』。活動中何度も暗殺されそうな目にあったがその度にうまく逃げた為『逃げの小五郎』という異名も持つ。こういった危機を救った京都の芸奴『幾松(いくまつ)』を妻に持つ。

その他、山県有朋(やまがたありとも)・伊藤博文(いとうひろふみ)等も長州藩出身である。さて話を戻そう。伊蔵は『京都ホテル』の袂にやって来た。このホテルの一階脇には先程書いた『木戸孝允(桂小五郎)』の銅像があるのだ。
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おおお!なかなか凛々しい御姿だ。すっかり変わってしまった京都の街をここから眺めている桂小五郎は何を思っているのだろうか・・
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維新後の彼は明治政府での重要な役職を歴任したが精神的苦悩も相当なものであったらしく鬱病気味だったという。これは明治10年に亡くなるまで続いた。何から何までこなす事が出来る人というのはやっぱり苦労が絶えないという事か・・。

織田信長にしろ木戸孝允にしろ時代の転換期を担った『改革者』であったが旧体勢を一新する為に多くの血が流された。現代ではそのような事は無いが、今も昔も大きな『改革』を行なう事はなかなか困難なものである。<つづく>
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Author:伊蔵
伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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