2017-10

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m-k観光主催『越前・福井の旅』その9/福井一人歩き3

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『橋本左内生誕の地』の史跡を見学した伊蔵はさらに東方向へと歩き、『フェニックス通り』の大きな道へと出た。この大通りの路面には『福井鉄道福武線』という路面電車が走っている。この『フェニックス通り』へ出た伊蔵は一旦この道を南下、東西を通っている『さくら通り』との交差点(裁判所前交差点)から再び東へ折れて、次の目的地『福井城』へと向った。
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『福井城』もその他の都市の城の大部分がそうである様に、街中の中心部に位置している。典型的な平城(ひらじろ/平地に建つ城の事)である。しかし残念ながら『福井城』には天守閣をはじめとする建造物の遺構が残っていない。
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現在の『福井城』の本丸には『福井県庁』『県警本部』『県議事堂』などの巨大な“現代の城”が建っているのみである。本丸の石垣、その周りを囲む堀は現代に残っており偉容を誇っている。
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『福井城』以前は『北ノ庄城』という城が建っていた事はすでにお話した。この城の城主だった柴田勝家が羽柴秀吉によって滅ぼされると『北ノ庄城』は落城、建築物は全て灰燼に帰してしまった。
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1600年、『結城秀康(ゆうきひでやす)1574年~1607年』が福井藩主に封ぜられ築城を始めたのが現在の『福井城』である。実はこの『結城秀康』は徳川家康の次男である(しかし二代将軍になったのは三男の秀忠)。家康の長男は『松平信康(のぶやす)』だが、織田信長に武田家との内通を疑われ、親である家康は自分の家を守る為に泣く泣く、正室築山殿と長男信康を殺してしまう。

『結城秀康』は次男として生まれた為、長男信康の死後は当然徳川家の家督を継ぐはずであったが1584年の『小牧・長久手の戦』後の家康・秀吉の講和条件として『結城秀康』は秀吉へ養子として差し出される事に(いわゆる人質)。秀吉の“秀”と家康の“康”の一文字づつを取って『秀康』と名乗る。その後結城家の姪を嫁に貰い、同時に家督を継いだ為『結城秀康』と名乗る様になった。

まさに戦国時代の中で“タライ回し”の様な人生を送って来たような感のある『結城秀康』だが、その戦振りはとても優れていたという。
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様々な人生の変転を経て『結城秀康』は福井藩67万石の初代藩主となった。築城時の縄張りは親である家康も関っているという。
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現在『福井城』には本丸を囲む堀の他はほとんど埋められてしまい当時の巨大な城としての面影は失われてしまっている。築城については約六年の歳月をかけ諸大名の協力を得た普請で完成したという。家康もこの城の普請に深く関わり福井にこれほどの規模の城を建て自分の身内を藩主に立てた本当の訳は、福井の北方、『加賀百万石』で知られる『前田家(初代利家)』への恐れと牽制にあった。

かなり巨大な規模の本丸周りの堀のほとりを歩きながら伊蔵は本丸へと繋がる橋へと歩進めて行った。<つづく>
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伊蔵と申します。
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お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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