2017-06

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伊蔵、登城す/その6・清正と石垣

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『本丸御殿発掘見学会』を満喫した伊蔵は引き続き名古屋城内を見てまわる事にした。間近くで見上げる名古屋城は流石に巨大な建築物だ。戦災で全焼する前は木造建築物だった。木造建築物としてはかなりの規模を誇ったものであったろう。
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この巨大な天守閣を支えている天守台石垣を普請したのが『加藤清正』という事は既に書いた。1610年(慶長15年)徳川家康による『天下普請』として名古屋城築城が始められたが家康は築城に関して事細かく口出はするが築城にかかる費用は一切出さなかった。築城の費用は全てが大名(外様大名)の自前で賄わなくてはならない。これが家康の狙いであり外様大名の藩には莫大な経済負担がかかって来る事になり築城を命ぜられた藩の財政は痩せる一方だった。必然的に謀反等を起こす事が叶わなくなるという訳。もし築城普請を断れば有無をいわさず家を取潰されてしまうので外様大名達は渋々築城普請に従事したのである。
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◆加藤清正/かとうきよまさ(1562~1611)
尾張国・中村の生まれ。彼の母が秀吉の母の従兄弟(一説には妹)であった事から秀吉に従えて様々な武功を残す。特に豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賎ヶ岳の戦では“賎ヶ岳七本槍”の一人に数えられる程の武功を立て、その後秀吉の天下が定まると清正は九州の肥後(熊本県)の半国25万石を与えられ熊本城を居城とした。朝鮮にも出兵し、各地を転戦し朝鮮国境の向こう側『オランカイ(中国東北部あたり)』まで攻め上ったという。武人としての側面と土木・築城の名手としても知られる戦国時代から江戸時代初期を生きた大名である。
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名古屋城の石垣には『清正石』と呼ばれる一個だけ異常に巨大な石が嵌め込まれている。
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だがこの『清正石』は嵌め込まれている場所は黒田長政が普請を任された場所であって、特にこの石が加藤清正と関係があるわけではないらしい・・・。
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これだけの石をどこから運んで来たのか理解に苦しむが、実際にここに存在しているのだから昔の土木技術の高さに素直に感心せざるをえない。本丸御殿発掘現場の礎石にも刻印が刻まれていたが、勿論石垣の至る所にも刻印が観察出来る。
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天守台の石垣に近寄って見つける事が出来たのが上の画像。細かく観察すれば至る所に刻印を見つける事が出来る。
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天守台をグルリと回り込むように歩いてみると石垣が造る曲線の素晴らしさに唸ってしまう。この曲線には外敵の侵入を防ぐ意味ともう一つ石垣を彎曲させる事によって内部の土圧と石垣自体の重みを上手く分散させる意味がある。名古屋城天守閣の石垣では石垣の下部と上部が外に反り出している『扇勾配』の技法が取入れられており、特に『清正流三日月石垣』と呼ばれているそうだ。
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建築基準法や構造計算等が一切存在しない時代にこのように緻密で美しい土木工事や建築技術があった事に非常に驚く伊蔵であった。<つづく>
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伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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