2017-08

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『遠州浜松』への旅/その15・山内一豊(十両の馬の話)

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『掛川』という地を語る上で『山内対馬守一豊(やまうちつしまのかみかずとよ)』という人物は欠かせない。この人物は戦国時代、織田家、豊臣家、徳川家と主家を上手く渡り歩き、ついには土佐(現在の高知県)20万石の大守となった人物である。その彼の出世の影には彼の妻である『千代(ちよ)』の“内助の功”があった話は有名だ。
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山内一豊の出身地には諸説あるが尾張国葉栗郡黒田(愛知県一宮市木曽川町黒田)だといわれている。彼の父である『山内盛豊』は織田氏に仕えていた。だがこの当時の尾張の『織田家』は岩倉織田氏(尾張上四郡)、清洲織田氏(尾張下四郡)のふたつに分裂して互いに争っていた。

山内家はその内の岩倉織田氏の家老として清洲織田氏と戦っていた訳だが、やがて清洲織田家の家老の一家(弾正忠家)に過ぎなかった『織田信秀』(信長の父)が主家よりも力を凌ぐようになり子の信長の時代になって主家である清洲織田氏を討ってしまう。まさに下克上の時代である。『織田信長』はその後も同族の内紛を治める為に尾張国内で様々な戦いを強いられた。岩倉織田家もその戦いの中で信長に敗れてしまい当然家老として仕えていた山内盛豊もその戦いの最中に討死、山内家は没落してしまう。その後『山内盛豊』の子である伊右衛門(いえもん/後の一豊)は『織田信長』に仕える事になった。

この信長と一豊とその妻・千代との関わり合いの中で有名な逸話が“十両の馬”の話だろう。この頃の信長は琵琶湖東岸に壮麗な『安土城』とその城下町を建設中であった。城下にはたくさんの様々な物や人が溢れていた。そんな中、一豊は城下の馬市で是非手に入れたいと思う馬に出会う事になる。馬商人にその馬の事について聞いてみると、これは奥州産の馬で黄金十枚の値打ちがあるという・・・その値段に織田家の家中もついにその馬を買わなかったという。

当時の一豊は羽柴秀吉の配下で二千石の身代であったが何分多くの家来を抱えていた為にそんな大金を捻出する事は普通に考えて不可能だったのだ。しかしどうしてもその馬を手に入れたい一豊は妻・千代に相談したところ彼女は黙って十両の小判を差し出したのである。その金は彼女が実家・美濃三人衆のひとつである不破家(伯父の家ではあったが)から嫁入りの持参金として山内家に嫁ぐ際に一緒に持って来た金であった。伯父には

『婿殿の大事の時にしか使ってはならぬ!』

と厳しく言われて今まで一豊にも内緒にしておいた大切な大金であった。
織田家の家中も手を出しかねた高価な馬を夫である一豊が手に入れたとあれば絶対に評判になり夫自身の株も上がると考えた妻・千代はこの機を逃さずその金を思い切って使う事にしたのである。かくして一豊はその馬を手に入れたと同時に信長のみならず織田家家中の者達の話題に登る程の“顔”となった。

う~む・・・現代社会ではこのような妻はとっくに絶滅してしまっているなぁと伊蔵は思うのだった。ホストクラブでナンバーワンホストに何十万、何百万を貢ぐ人妻はいくらでもごろごろいるものの自分の夫の功名の為にこれ程の大金を出そうと考える女性はもはやおらんだろう。良い嫁さん貰ったな一豊(笑)<つづく>

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幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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