2017-08

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『遠州浜松』への旅/その16・山内一豊(掛川城主~土佐藩初代藩主)

『山内一豊』と『掛川』との関わりは秀吉が関東の北条氏を滅ぼして天下を統一して後の事になる。徳川家康の力を恐れていた秀吉はまず彼を先祖代々の領地であった三河と後に手に入れた遠江・駿河の封地から遠く関東の地へと移し、自分の住む大坂から遠ざける行動に出た。関八州250万石の広大な領地を家康は手に入れた訳で一見これは「栄転」にみえるが彼等三河武士等からしてみれば意図的に中央の政治の世界から遠ざけられたという事でありむしろこれは「左遷」であった。

当の家康もこの事は分かってはいたが無駄な戦いは行なわない辛抱強い彼はこの転封にもめげずにジッと耐え忍ぶ事にし、ドッカリと関東に腰を据えて力を十分に蓄える事にした。いずれ自分より先に秀吉は死ぬ。その時までじっと待ち、関東の地で実力を蓄えておく方が今は得策だと考えたのである。

秀吉は家康を関東に封じただけでは安心せず大坂から関東を結ぶ東海道の要所要所の城に自分の配下の武将を数珠を並べるように配置して万が一家康が西上するような動きをみせた場合の牽制とした。その東海道の要所のひとつ『掛川』に配置されたのが『山内一豊』その人だったのである。彼はそれまで長浜(現在の滋賀県長浜市)で2万石の領主をしていたが秀吉の天下統一によって彼は遠江掛川6万石の領主となった訳だ。
DSCF8139.jpg
この『掛川城』は元々駿河の守護大名今川氏の遠江支配の拠点として築かれた城であったが戦国期を通じての幾多の戦乱で荒れ果てていたのを一豊がこの地の領主になると城を大改築、城下町も整備しこの時初めて天守閣も造営した。

関東の家康に対する東海道の守りは万全だと思っていた秀吉の目算は彼の死後脆くも崩れ去る。秀吉には秀頼という跡取り息子がいたものの次の天下は徳川家のものとその実力面から言っても誰がみても明らかだった為、自家の温存の為には手段を選ばず強い者に従って行かねばならないという戦国の悲しい性に一豊はじめ東海道の要所に配されていた大名も否応なく飲み込まれてしまったのだった。

彼は手の平を返した様にといっては可哀想だが関ヶ原の戦いの前に家康にいち早く自分の城である『掛川城』を差出しこの城を家康の西上の役に立てて欲しいと申し出たのである。この申し出を聞いた他の東海道を守っていた武将達もこぞって自分の領地を家康に差出したという。かくして秀吉が作り上げた東海道の守りは一挙に崩れ、家康本隊は東海道を悠々と西上し、予定戦場である濃尾平野まで大軍を進める事が可能になったのである。
yamauchi**
『関ヶ原の戦い』は家康の東軍の勝利に終わり、いち早く東海道の自分の城と領地を差し出した山内家はその功により土佐一国20万石を与えられる事となった。移封先の土佐では土着の武士との対立、戦いの中で様々な苦労しながらも山内一豊は領国経営をこなし、江戸時代を通じて土佐藩山内家は幕府から改易や転封もされる事なく明治の世まで続いたのである。<つづく>


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