2017-06

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信州長野・上田の旅/その8・上田城跡公園

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『上田城』は天正11年(1583年)『真田昌幸(さなだまさゆき)』によって上田盆地中央部に築かれた平城である。いよいよその城に入る。しかしすでに伊蔵は城域内に入っているのである。先程歩いて来た長野県立上田高校(上田藩主居館跡)や上田市庁舎のある辺りは昔の上田城の三ノ丸にあたるからだ。上田城跡公園入口の石碑を右に見ながら公園内に入って行った。

二ノ丸に入る手前に空濠がありその上に立派な石造りの橋が掛かっている。昔の城の絵図を見ると現在は空濠になっているものの当時は水をたたえた水濠だったようだ。この濠は上田城の外濠にあたる。昭和の初め頃この空濠を名古屋城の外濠を走っていた旧瀬戸線と同じ様に『上田温電北東線』という鉄道が走っていたという。
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空濠を石造りの橋の上から眺めて見ると、なるほどどことなくそんな面影が残っている。『上田温電北東線』は昭和47年に廃線となって以来、現在は緑の遊歩道として使用されている。橋を渡り終えて中へ入って行くと広い公園の様な場所に出る。ここが上田城二ノ丸だ。二ノ丸には観光用の大きな駐車場、上田市観光会館や市民会館の他、市立博物館、山本鼎記念館等の施設が点在する。二ノ丸の公園の中の道を伊蔵は本丸へと歩いて行く。
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本丸の周囲には内濠がコの字型に存在する。北・西・東側に水濠を巡らしてあるという具合だ。
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一方の南側は先にも話した様に河岸段丘上に築かれた城なので高さ13m程のかなり急な土手になっており、なおかつすぐ下を当時は千曲川が流れていて天然の濠の役割をしていた。
城の南側の千曲川はかつて尼ヶ淵と呼ばれていてその為上田城は別名『尼ヶ淵城』とも称される。
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このように上田城は本丸を内濠と尼ヶ淵の要害、二ノ丸を外濠で囲いその外側に城下町を配して千曲川の分流である矢出沢川を自然の濠として町全体を囲みいわゆる“総構え”を形成していた。
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本丸へは東虎口から入るのだがここに立派な櫓門とそれを挟む様に北櫓、南櫓の二つの隅櫓が建っている。
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櫓門については近年に復元されたものだが北櫓、南櫓は明治の初めに出された『廃城令』によって民間に払い下げられて別の場所に移築されて遊廓として使用されていた。それをまた元の場所に戻したものである。もう一つ本丸には西櫓があるがこちらは創建当時から建っているもの。
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櫓門を支える石垣に『真田石』という巨大な石が嵌め込まれている。約3m四方の大きさがある。この石は真田昌幸が上田城築城の際に付近の太郎山から運んで据えたもの。真田昌幸の嫡男信之が上田から少し北方の松代に転封になる際にこの石を一緒に持って行こうとしたがビクとも動かなかったという逸話が残る巨石である。
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櫓門をくぐると本丸なのだがこの上田城には天守閣などというものは無い。お世辞にも立派な城といえるものではないにも関らず『城マニア』の間でこの上田城は人気が高い。
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その最大の理由はこの上田城は少人数による籠城戦で数に勝る徳川軍の来襲を二度に渡り破ったという事実がある事だろう(第一次・第二次上田合戦)。この上田城は城本来の役割を立派に果たしたというその価値があるのである。
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ただ現在の上田城の遺構は真田昌幸が造ったものではない。関ヶ原の戦いで西軍側についた真田昌幸は紀州九度山へ配流され、彼が最初に築城した上田城は破却されてしまった。
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現在遺されている建築物は真田家が松代藩へ移った後に代わりに上田城主となった仙石氏によって再建されたものである。真田昌幸が実際に建てた初代の上田城はどのようなものだったのかは正確には分からない。
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まず石段を登って南櫓内に入ってみよう。櫓は木造二階建てで内部は仕切り等はなくがらんどうで構造自体も非常に簡素で主要な木材には松と栂が使われている。
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櫓内一階部分と二階部分ではともに上田城に関する資料展示や武具や駕篭の展示等がなされていた。南櫓二階へ上がり小窓(鉄砲狭間)から外を眺めて見る。
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小高い河岸段丘上に建てられている城なので雄大な景色とまではいかないが上田市街南部の景色を楽しむ事が出来る。南櫓から続いて再建された櫓門上の櫓にも入って見た。
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さすがに近年再建されたものだけに新しく屋根を支える材も立派で木肌も明るく美しい。その櫓門内を通過し北櫓へも足を運んだ。内部には真田三代の人形展示がされていた。
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中央が真田昌幸、右が真田幸村、そして左は幸村の嫡男真田大助である。真田家の家紋『六文銭』についての説明も。
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◆家紋「六文銭」の由来/真田家の家紋として名高く六文銭とも呼ばれるが仏教では死者が三途の川を渡る時、渡し守に拂う渡り賃だといわれる。不惜身命を唱える武士にとってふさわしい旗印とされ、つまりいつでも死ぬ覚悟があると言うことが示されている(原文のまま)。
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上田城の各隅櫓はきらびやかな部分というのは一切ない。まさに実戦の為に造られただけのものといった方が合っていて実に質素だ。
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現在の上田城本丸はちょっとした広場のようになっており西の端に『真田神社』が建っているのみ。
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上田城とその城下町を造った真田父子を主神とし、上田藩を真田家から受け継いだ江戸時代の藩主仙石家、松平家を祭神とする神社である。簡素な本堂の脇を通って奥へと進むと上田城西櫓へと至るのだがその手前に『真田井戸』と呼ばれる大きな井戸があった。
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この井戸には抜け穴があり城の北側の太郎山にある砦まで通じており、この抜け穴によって万が一城を敵に囲まれても城兵の出入りや兵糧の運び込みにも不自由しなかったという伝説が残っている。真田井戸の脇を通って西櫓へ行ってみたがこちらの櫓の中へは入る事が出来なかった。
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西櫓の建っている高台からかつてこの上田城を守っていた天然の要害“尼ヶ淵”を望む。現在では千曲川の流れは一切なく公園と駐車場になっている。遠くに見えるのは長野新幹線の高架だ。
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伊蔵の上田市観光も上田城見学を最後にこれで終わりだ。この後は上田市から北上し、今夜の宿をとってある長野市まで列車で向かうことになる。少々天候の方が悪くなって来たのが心配だった。伊蔵は上田城内から尼ヶ淵の下を通ってJR上田駅方面へと向かった。<つづく>


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伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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