2017-10

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小田原・箱根への旅/その2・北条早雲という武将

午前9時前に小田原駅へ到着した伊蔵。早速小田原駅前のロータリーへと出てみる事にした。さすがに観光地箱根をすぐ西に控えている街だけあって駅前ロータリーはタクシーやバスの量が多かった。そんなロータリーの中央部に一体の銅像がたっていた。どこの観光地にも必ずその土地由来の英雄の銅像がたっているがここ小田原市もその例に漏れることはなかった。
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小田原駅前にたっていた銅像は『北条早雲(ほうじょう そううん)』公であった。松明を角に掲げた牛三頭を従え突撃する様をモチーフにしたその姿は何とも勇ましい。
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『北条早雲』は室町時代後期に現れた日本最初の戦国大名として有名な武将である。後北条家(鎌倉幕府執権職にあった北条家とは区別してそう呼ばれる)は彼を初代として五代百年に渡って関東を中心に栄えたが四代氏政、五代氏直の時代に、天下統一を目指す関白豊臣秀吉の率いる22万の大軍勢によって、その居城小田原城を隙間無く取り囲まれ降伏するに至る。

後北条家初代の早雲は室町幕府に仕えた伊勢家の出身であり元々の名前は『伊勢新九郎盛時(いせ しんくろう もりとき)』という。(北条姓並びに早雲と呼ばれるようになったのは彼の息子である氏綱の代になってからで、彼が存命中には北条早雲の名は使われていない)早雲が歴史の表舞台に登場するのは彼自身が40歳を越えてからなので、その前半生についてはこれまで謎とされる部分が沢山あったのだが、最近の研究によって次第に様々な事が分かってきているようである。

早雲が足利家に仕えていた頃というのは室町幕府の末期。幕府の権威が揺るぎ始めていた頃。折しも足利将軍家の跡目争いから端をを発した『応仁の乱』によって都周辺は荒廃し、民百姓は度重なる戦の犠牲となり塗炭の苦しみに陥っていたそんな時代であった。彼はそんな様子を間近で見て民百姓が安心して暮らせる世の中を創りたいと考えていた。その後、足利家を見限り諸国を長い間放浪。たまたま彼の姉(または妹説もあり)が駿河国の今川家に嫁いでいた事から今川家に出入りするようになる。

そんな中、たまたま起こった今川家の家督争いの調停に才を発揮した彼は彼自身が後押しをして当主となった今川氏親からその恩賞として伊豆半島の根元あたる(現在の沼津市西部あたり)興国寺城を与えられ、以後この城を中心に彼が常日頃から考えていた民百姓の為の理想国家建設を目指し、独自の政治を実践していく事になるのである。
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後年、次々と諸国に現れる戦国大名達とは異なり、彼の領土拡張は私利私欲や野望に満ちたものではなく、ひとえに毎日の生活に苦しむ民百姓を救う為であったところが大きな違いである。伊豆国を当時治めていた足利家の一門(堀越公方)を襲い一国を手中にしたのもそうした観点からであった。一介の地方領主が幕府一門の足利家を討った事からこれが後に“下克上”と呼ばれ、早雲がその先駆けとされて日本最初の戦国大名と呼ばれる所以となっている。

足利家から伊豆一国を奪った彼がまず自分の領国内で行った大きな政策は農民に課せられていた重い年貢の軽減であった。伊豆国ではこれまで『五公五民』(収穫量の半分を年貢として治める)という制度で年貢の取り立てが行われていたが、早雲はこれを『四公六民』に改めた。つまり領主の取り分より農民の取り分の方を増やしたのである。逆に早雲自身、家臣に対しては質素な生活を旨として財政の引き締めを行ったのであった。取りやすいところから取れる分だけ取ってやろうとする現代社会とは随分違う(笑)。

彼のこうした政策は『早雲寺殿廿十一箇状』として明文化され、領国の隅々にこの政策が行き渡るようにしただけでなく北条家子々孫々まで受け継がれることになった。やがてこうした彼の民を慈しむ政治は領国だけでなくその周辺にも知れ渡ることになった。

次に彼が手に入れたのは伊豆国の隣の相模国。まず当時の小田原城主であった大森藤頼との間に進物等を送るなどして形式上のみ親しくしておき相手の油断を誘った。

ある時、早雲は箱根山で鹿狩りをしたいと勢子達ともども領内に入らせてほしい旨、小田原城主大森藤頼に願いを立てたところ彼は快く了承した。大盛藤頼は早雲の日頃の進物攻撃にすっかり籠絡されていて油断していたのだ。
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大森の了承を得た早雲はその夜、勢子姿に偽装していた自らの兵と千頭の牛の角に松明を灯させ大軍勢に見せかけて箱根山を駆け降りた。この様子を見た小田原城中は混乱に陥り、城主大森藤頼は逃亡、早雲は小田原城奪取に成功する。本当にこの様に城を奪取したのかどうかは確かな事は分かっていないが、この出来事をモチーフに造られたのが冒頭の小田原駅前ロータリーにたつ北条早雲公像である。以後、北条家はこの小田原城を拠点に関東各地をその勢力下に治めていく事となるのであった。

領民の事を第一に考える政治を行った北条早雲。小田原市民が彼を英雄視し、街の玄関口にあたるこの場所に彼を讃える銅像をたてたのも十分納得出来るというものだ。<つづく>
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伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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