2017-08

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小田原・箱根への旅/その17・小田原城(1)

小田原駅前の「うおがし」さんにて夕食を食べた伊蔵はよ雨が降る夜の小田原市内を宿の方角へと歩いていた。これから向かおうとしている小田原城は今夜の宿とは目と鼻の先なのであった。
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伊蔵は旅先でその土地の城を見て回る事が多いが今回の「小田原城」に訪れるのは初めての事だった。静岡県にある「掛川城」もそうだったがこの小田原城も東海道新幹線を使って東へ向かう途上にチラリと望む程度の城だった。ただいつかは間近から望んでみたいと思っていた城だった。
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この「小田原城」が日本史上最も有名になった出来事は何といっても天正18年(1590年)豊臣秀吉の「小田原征伐(北条征伐)」時であろう。天下統一の最後の総仕上げとして行ったこの秀吉による小田原征伐はこれまでの合戦の常識を覆す圧倒的な動員兵力(約22万)でもって小田原城の全周囲を囲んだ大規模な戦いであった。
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自らの勢力下にある諸大名のほとんどを動員、またその大軍勢を支える巧みな兵站能力(補給能力)を持つ秀吉の上方軍勢は北条氏の考える戦闘の常識をはるかに凌駕しており、北条氏の勢力下にある関東の支城は秀吉の別働隊によって次々と陥落、次いで本拠地である小田原城もついには陥ちた。この「小田原征伐」によって五代百年間に渡って関東を治めていた後北条氏はついに滅び去った。
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「小田原城」は小田原市内に北西方面からのびている山の手の先端部分に位置している。相模湾が目前に迫る場所で城を中心に広大な城下町が形成されていた。
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現在、復興天守閣のある場所は江戸時代になってから整備され築かれた近世小田原城があった場所であり、戦国期に活躍した北条氏が築いたものではない。北条氏が城として使っていたのは現在の天守閣よりもさらに北西方面の「八幡山」を中心とした辺り(現・小田原高校付近)だったらしい。この八幡山の尾根の先端部が今現在の小田原城址公園となっている。

「小田原城」は初代北条早雲が大盛氏から奪ってから後、城の規模が拡張されていった。三代氏康の頃には越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄に小田原城は攻められたがこれを退けた実績もある。この際の籠城戦勝利の実績が後々北条家の籠城至上主義となってしまった感がある。
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ただ籠城戦に自信を持つのも無理はない。この小田原城はそれだけの規模と鉄壁の守りを誇っていた。代を重ねる毎に城の規模を拡張していった結果、秀吉の小田原征伐時には城と城下町全域を空濠と土塁で囲んだ“総構え”を形成しており、その総延長は約9kmにも及び中世最大級の規模を誇った城であった。

確かにこれくらい規模がある城塞ならかなりの期間籠城して戦う事も可能だろう。しかし総構えが大規模になればなるほどその城域内に籠城する人数も多くなるはずで、その人達を賄う食糧や物資などはそれ相当の量が必要となる。北条氏側も戦いが始まる前にこれらに関しては十分な準備をしていた。さすがの秀吉軍もこの総構えを施した巨大な小田原城を力押しで攻める事は出来ず、城の周りを陸地、海を問わず蟻の這い出る隙間もなく軍勢で取り囲み、秀吉は小田原城を見下ろす箱根の石垣山に城を築いて本陣とし得意の“兵糧攻め”の形をとった。だが長引くかにみえたこの籠城戦は予想に反して戦いらしい戦いもせず、ほとんど無血に近い形でわずか三ヶ月程で終わってしまった。

◆江戸時代の小田原を再現したCGファイルを映像で!
http://www.youtube.com/watch?v=9EOsDTqRnfY

これは秀吉の兵糧攻めという戦いの仕方、巧みさの結果ともいえるものであった。圧倒的な軍勢と物量を背景に秀吉は小田原城を囲んで長期戦を視野に入れ戦いに望んだが、戦いを出来るだけ短期間に終わらせる為に様々な演出(敵に対する示威行為)を行った。本陣である石垣山に一夜にして城を築いた様に見せかける演出をはじめ、陣中に見世物小屋を作って兵達を和ませつつも戦闘に対する士気を保ったり、自らの愛妾である淀殿や諸大名の妻達も戦場に呼び寄せたりした。小田原城内ではいつ秀吉の軍勢が総攻撃をかけて来るかと戦々恐々とした毎日を過ごしていたのに対し、城を囲む秀吉陣営では毎日がお祭り騒ぎの状態だったのである。

こういった状態がある一定の期間続けば小田原城内に詰める城兵達の心理に戦いをし続ける気力が無くなり厭戦気分が巻き起こって来るのも当然であった。この頃の秀吉はこうした籠城戦に対する戦術的演出が旨く、なるべくお互いに血を流さず城内の兵達の戦意の喪失を狙う事が多かった。こうした心理戦は彼が得意とするところであり彼が“城攻めの天才”といわれる所以である。
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結局、五代北条氏直(彼は徳川家康の娘婿にあたる)が自分が切腹するかわりに城兵達の命を助けてほしいと徳川家康の陣に駆け込み小田原城は陥落した。氏直はその意に反して秀吉から許され高野山へ追放されたが四代北条氏政、氏照の兄弟は切腹し、ここに関東に五代百年間渡り支配を続けてきた北条氏は滅んだのだった。

この小田原戦役の後、関東に移封された徳川家康はこの小田原城代として腹心の大久保忠世(おおくぼ ただよ)を置いた。この際に大城郭を誇った小田原城は改修され規模を大幅に縮小されたという。現在小田原市で見ることが出来る小田原城はこの近世小田原城という事になる。<つづく>



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お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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