2017-06

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小田原・箱根への旅/その18・小田原城(2)

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その「小田原城」へと雨の中向かってみた。
想像していたよりも大きな濠に沿った「お堀端通」を進んで三の丸から架かっている橋(馬出門土橋)を渡り「馬出門(うまだしもん)」という城門から中に入る事にした。
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雨がシトシトと降る夜の城跡というのはあまり気持ちが良くなかった。首無しの鎧武者の亡霊が現れて追っかけられそうな感じがしてくる(笑)。幅の広い濠も吸い込まれるように真っ暗でどこか不気味であった。まして夜に城を見に来る観光客などいるはずもなく城内はシ~ンと静まり返っていた。
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小田原城内への第一関門「馬出門」は2009年(平成21年)に約5億円を投じて復元されたものでまだ新しい。小田原城は明治時代に入って全国の城と同じ様に“廃城”の措置がとられ城内のほとんどの建造物が取り壊されてしまった。さらに1923年(大正12年)に関東地方をおそった関東大震災でも甚大な被害を受け、天守台の石垣や二の丸平櫓などが崩壊してしまう。以後、小田原城は国の史跡に指定されて小田原城址公園として保護されている。小田原市では平成5年に「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を策定して整備を進めているとの事で城内の様々な遺構が復元作業の途上にあるようだった。この「馬出門」もその整備事業のひとつとして復元されたものである。
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「馬出門」をくぐると進路左手に見えてくるのは「内冠木門(うちかぶきもん)」。これをさらにくぐると広い広場のような場所に出る。この場所は「馬屋曲輪(うまやくるわ)」といって文字通り馬を留め置く馬屋や登城する人々達の待合所としての役割をしていた場所である。
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この「馬屋曲輪」の右側に進路をとり濠を跨ぐ小さな橋の先にある門をくぐり終えると・・・
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巨大な「銅門(あかがねもん)」がある。このように馬出門~内冠木門~馬屋曲輪~銅門と進路は逆コの字型に屈曲して順路はが続いていた。これは本丸を守るための防御策として城郭には必ず見られる「桝形(ますがた)」と呼ばれる構造である。「銅門」は二の丸の表門にあたり、その名は扉の飾り金具に銅が使用されていた事に由来する。明治5年に取り壊されるまでこの門は江戸時代を通して建っていた。現在の銅門は1997年(平成9年)に復元されたものである。

こうして小田原城内を巡ってみると小田原市はかなりの急ピッチで城の建造物の復元作業を行っているように見える。それに実際初めて伊蔵は小田原城に訪れたのだがなかなかどうして想像していたより規模が大きく立派な城址公園で驚いた。

巨大な「銅門」をくぐるとそこは小田原城の二の丸にあたる場所なのだが建物は何も残っておらず、歴史見聞館のみが寂しく建っている。その他はただのだだっ広い広場があるのみである。昔はこの場所に「二の丸御殿」が建っており、藩主の住まい、また藩政庁としての役割を果たしていたという。土地の広さからしてかなり大きな建造物だったに違いない。

雨で少々ぬかるみ気味の二の丸広場を歩いて行くと本丸へと続く石段が現れた。二の丸と本丸との土地の高低差はかなりあるようだ。二の丸と本丸の間には空濠が設けられていて隔てられていた。空濠に架けられた赤い橋を渡り終えるとさらに上へと登る石段が。
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石段を登り終えるとそこに本丸を守る為に設けられたこれまた巨大な門「常盤木門(ときわぎもん)」が現れる。小田原市制30周年事業として1971年(昭和46年)に再建された門である。“常盤木”とは常緑樹の事を指しており、この門のすぐ脇にあった松の木になぞらえて名付けられたといわれる。全く人気の無い暗い雨の中を伊蔵はこの巨大な門をくぐり本丸内へ向かった。
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本丸敷地内は暗く静かであった。江戸時代にはこの場所に「本丸御殿」があったが1703年(元禄16年)に起こった元禄大地震によって倒壊して以来再建はされず(天守閣もこの地震で倒壊したが1703年(宝永3年)に再建されている)建物は何も残っていない。小田原城本丸御殿は三代将軍家光が上洛する際に将軍専用の御殿として使われたという。

現在この本丸敷地内には復興天守閣の他に、ちょっと信じがたい事だが小規模ながら“動物園”と“遊園地”がある(笑)。何故に城の本丸にこのような施設があるのか・・・。まさか17世紀当時を生きた“生まれながらの将軍”江戸幕府三代将軍家光も自分専用の御殿の跡地に後世動物園が出来るとは思ってもいなかったに違いない(笑)

昭和25年(1950年)に「小田原こども文化博覧会」が開催された。この時に博覧会の呼び物として動物園が造られたのだという。博覧会終了後も動物園は存続、およそ半世紀の歴史を持つ古い動物園なのである。先程も書いた通り動物園とはいってもかなり規模の小さなもので現在は数種類の鳥類に猿くらいを見る事が出来るくらい。

昨年にこの動物園の人気者であった“象のウメ子”が60歳で亡くなった。この象は日本の戦後復興支援としてインドから贈られた象で開園当時からこの動物園にいた。当時の子供達の人気者でウメ子の存在はそのまま小田原城動物園の歴史でもあった。

しかし開園から半世紀、現在進めている小田原城郭の復元や整備上、城郭内に動物園が存在するのが衛生上また景観上好ましくないとして事実上この動物園は廃園の方向に進んでいる(現在この動物園にいる猿などはいまだ引き取り手が見つかっていない)。時代は変わったというか、人間ってホント勝手だなぁと思わざるをえない。

伊蔵が本丸内を歩いていると象のウメ子が居た獣舎が暗闇の中ひっそりとそのままの姿を留めて残っていた。彼女は推定4歳頃に日本にやってきてからずっとこの小田原城本丸内で半世紀以上を過ごした。彼女は果たして幸せな人生(象生)を全うする事が出来たのだろうかと考えてしまうが、象の平均寿命60年を立派に生き抜いたところをみるとストレスなく幸せな一生を送ったのかもしれない。余談だが戦後に開かれた「こども文化博覧会」は静岡県浜松市でも開かれ、浜松城内にも動物園が存在しこちらにも“浜子”という名の象がいたという。
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雨の降る静かな本丸内を歩く伊蔵。この日の本丸敷地内では「菊の展覧会」のようなものが開催されていたらしく所狭しと栽培された色とりどりの菊が展示されていた。その菊展示の向こう側に白い照明に照らされた「小田原城復興天守閣」がぼんやりと浮かんで見えてきた。<つづく>

◆3次元CGで見る江戸時代の小田原/You tubeより
 江戸時代の小田原城の城郭構造が分かりやすく解説されています。
http://www.youtube.com/watch?v=libYumqKPSY




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幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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