2017-10

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『漂流』・吉村 昭 著

多忙につきすっかりブログの更新が出来ずにいました・・・
『伊蔵通信』閉鎖はしておりませんのでご安心下さい。

ここ数ヶ月ドキュメンタリー作品に新境地を拓いたといわれている作家『吉村 昭(よしむら あきら』の文庫本を立て続けに読んでいる。吉村昭はその著作『桜田門外ノ変』が先頃映画化され放映中になので名前を聞くと分かる方も多いだろう。

●吉村 昭(よしむら あきら)
1927年東京都日暮里生まれ。学習院大学中退。1966年「星への旅」で太宰治賞受賞。同年「戦艦武蔵」等で脚光を浴び、一連のドキュメンタリー作品の業績により菊池寛賞を受賞。執筆にあたっての周到な取材と史実の綿密な調査、緻密な構成には定評がある。2006年7月31日没。
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書籍に限らずテレビ番組でもドキュメンタリー物は伊蔵の好むところである。今回紹介するのは一番最初に読んだ『漂流』(新潮文庫)という作品。
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この作品は実は随分前に北大路欣也主演で映画化されている。それをまともに見ていずチラリと見たというだけだったが気になって記憶の片隅に残っていた。いつか原作を読んでみたいと思っていたがなかなかその機会がなく、今の今まで読んでいなかったのであった。映画での話はネット上で調べてみるとそれなりに脚色されているようだ。原作は史実をもとにほぼ忠実に書かれているのだがそれでも読後の感想としてはかなり面白くて一気に読めた。

この物語は江戸時代(天明年間)の土佐(高知県)の小さな漁村(赤岡村)から始まる。この村の隣村で船乗り(水主)をしていた長平(ちょうへい)という若者がいた。

天明15年(1785年)1月、この長平と同じ水主の音吉、水主頭の源右衛門、船上で炊事を担当する甚兵衛は船頭「松屋儀七」の所有する三百石船で赤岡村から東へ七里半(約30キロ)離れた田野村と奈半利村まで御用米250俵を運ぶ仕事を請け負う事になった。田野、奈半利両村は飢饉にみまわれており、それを助ける為に土佐藩の命で“お救け米(おたすけまい)”を運ぶという仕事であった。

現地に無事に米を運んだまでは良かったが、その帰路で海上の天候が急激に変わり、ここら辺りでは“シラ”と呼ばれて船乗り達から恐れられている強力な北西風が吹き、長平らを乗せた三百石船は赤岡村への帰路のコースを大きく外れ東の方角に流されてしまった。

海は大荒れに荒れて舵も破損、水主頭の源右衛門は船の安定を保つ為、帆柱を切り倒したので船は漂船となって風に流されるままどんどん東へと流された。やがて船は黒潮の流れに捕まりさらに大きく流され、室戸岬沖を掠めて沖へ沖へと流されていった・・・。船は波に揉まれてどんどん破損して行き、わずかな食料と水も底を付き長平らは絶望感に苛まれながらも漂流を続け、漂流14日目にある島へと漂着した。
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その島は八丈島の南方、青ヶ島のさらに南の無人の活火山島『鳥島(とりしま)』であった。そこは江戸から150里(600キロ)、土佐からは165里(660キロ)隔たった絶海の孤島だった・・・。

こういった難破、漂流に関する話というのは四方を海に囲まれている日本では古来から数え切れないほど記録に残っているようだ。生きて帰って来た者の記録だけではあるが・・・多くは海上で亡くなったか、島に辿り着いてその島から故郷に帰れず死亡したかのどちらかであろう。

この『鳥島』へは長平らが流れ着いたよりも以前に流れ着いた船乗りもいたし長平らの時代の後にも漂着した船乗り達がいた。有名な所では幕末期に活躍した長平らと同じ土佐出身の“ジョン万次郎”もこの島に漂着した一人だった。彼はこの島で143日間を過ごした後、運良くアメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡ったが、長平はこの島で実に12年半を過ごす事になる。

この吉村昭『漂流』の物語序盤ではこういった漂流の記録の他に、グアム島で潜伏していた元日本陸軍の横井庄一軍曹やフィリピンのルバング島で同じく潜伏していた元日本陸軍情報将校小野田寛郎少尉の戦後30年あまりに渡る島での孤独な戦いとサバイバル体験にも触れている。こうした“サバイバル物”の物語は伊蔵は子供の頃から好きで結構読んでいる。横井さん、小野田さんの自伝も読んだし、漫画家さいとうたかをの作品『サバイバル』も好きで読んでいた。
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土佐沖での海難事故から運良く命拾いをした土佐の船乗り長平ら四名は運良く?絶海の孤島『鳥島』に上陸したが、これから彼らを待ち受けていたのはまさにサバイバルな生活なのであった。彼らが辿り着いたこの『鳥島』は活火山島である為、島内には樹木は一切無くわずかに植生しているのは背が低く食べ物にならない植物のみ。その他は赤茶けた荒涼とした土ばかりの島であった。勿論島内を流れる川も無く人間の身体にとって大切な真水も得ることは出来なかった。このような状況の中で長平は12年間、この島で生き抜いたのである。

果たしてあなたならこの様な環境下で長期間生きていく事が可能だろうか?合理的で何するにも便利な生活、食う事に困らない生活に慣れきってしまっている現代の我々ではきっとこの過酷な環境では長くは生きていられないであろう。昔の人はやっぱり凄いとしかいいようがない。

『鳥島』は自然環境的には確かに何も無い島ではあったものの長平らにとって幸運だったのはその島が巨大な海鳥“アホウドリ”の大繁殖地であった事だった。アホウドリは人間を知らないらしく恐れる事も無かった為、長平らは簡単に捕まえる事が出来た。
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彼らはアホウドリの頭を石で叩きつけ絶命させそれらの肉や内臓を“生”で食べた。火を起こす道具である火打ち石をすでに海で無くしてしまっていた彼らはその肉を焼く事も煮る事も出来なかったのである。生きる為には贅沢は言ってはいられない。生肉は何も味がしなかったが海水で肉をもみ洗いして食べると適度な塩味がついてなかなか美味しかったらしい。

アホウドリの卵も彼らの貴重な栄養源となった。心配された真水の補給についてはもっぱら雨水を飲料水とする他なかった。南方の島という事で適度な降雨量があったのも幸運であった。雨水を貯水する為に彼らはアホウドリの卵の殻をいくつも地上に並べて貯めるように工夫し、島内を歩き回り最も環境が良さそうな場所にある洞穴を住居としていた。島内での食料としては前述したアホウドリの肉の他、海辺の磯付近で貝類や小さな蟹、海藻類も手に入れる事が出来た。

人間食べていかねば死ぬのが当たり前。食える物は何でも食べねば生き抜くことは出来ない。食料を得られない極限の状態に置かれて好き嫌いをする人は多分いないだろう。それほど“飢え”というのは恐ろしいものであるし飢餓状態の人間はその性格すらを醜く変貌させてしまうものなのだ。

人間の欲望の一つである“食欲”“生きることへの執着”というものはすさまじく堪えようと思っても堪えられぬ事が史実をみてもわかる。戦国時代での城攻めの一つである兵糧攻めや江戸時代にたびたび起こった大飢饉の際の飢えに苦しむ人間の様というのは悲惨さを通り越して地獄絵図を見るようだったという。

城の回りを兵でびっしり取り囲み、外部から城内への食糧の供給を絶って城兵を飢えさせ戦意を喪失させて最終的に開城させるというのが兵糧攻めだ。城内の兵は備蓄されていた米が無くなると、木の皮や雑草の根や葉を食べ、それが食べ尽くされると城内の犬、猫、鼠などの小動物や馬の肉まで食べた。それまで食べ尽くしてしまうと飢えに弱って亡くなり埋められた餓死者の墓を掘り返し、その死肉まで食らうようにまでなってしまう。

あまりの飢えの苦しさと城内の地獄のような惨状に耐えかねて城外へ逃げだそうとする兵もいたが、たちまち城外の敵兵に鉄砲で撃ちかけられて負傷し倒れる。まだ息のあるその負傷兵に飢えた味方である城兵が鉈や刀を振りかざして我先にと次々に群がって手足をバラバラに解体し、その肉を食らうという“餓鬼道”そのままの有様がみられたという。
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上記の事を考えれば『鳥島』という絶海の孤島に流されたとはいえ、長平達はアホウドリという“食糧”が島にそれこそ無尽蔵というほどあったのだから幸運としかいいようがない。彼らは毎日アホウドリを生で食べて生き続けることができた。また、彼らにとって幸運だった事はアホウドリが渡り鳥である事を見抜いた事だった。

アホウドリは繁殖と子育ての為に一年間の内、9月~翌年の4月までこの『鳥島』で過ごすが、それ以外の期間はベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島方面へ渡っていってしまい島には一羽もいなくなるのである。アホウドリの様子を毎日見ていた長平らはこの事実に気が付き、アホウドリのいない期間を食いつなぐ為に肉を干して保存する事にしたのだった。長平達がこの島へ流れ着く以前にも何組かの漂流民がいたがアホウドリが渡り鳥だと気が付かずに島から鳥が一羽もいなくなった後に餓死した者も多くいたようだった。

干し肉という保存食を予め用意した彼らは鳥がいなくなった後も食うことには困らずその肉を食べて生活していた。だが孤島という何の娯楽も無い閉ざされた世界では食うことには困らなくても、精神力が弱い人間から体力が徐々に弱っていくのであった。まず持病持ちの水主頭の源右衛門が倒れた。彼は国に妻子もあり故郷を懐かしんではこの島で何年過ごすことになるだろうかと事ある毎に先々に絶望し、メンタルな面でも一番ダメージが強かったのだ。彼は日毎に衰弱して食べる事さえ出来なくなりついに死んでしまう。

次の犠牲者は長平と同じ水主の音吉と船上での炊事を担当していた最年長の甚兵衛。彼らも次々と弱り始めた。

干し肉を保存していたから食べる事に不自由はしなかったが、島にはこれといった娯楽もないので食べるだけで動くという事をしなくなった。一日中寝ては干し肉ばかりを食べるという生活を続けていた為に身体に変調を来したのである。その点、長平は島を歩き回ったり、磯辺に出掛けて行っては海藻や貝類、蟹や魚を食べていたので適度な運動と食べ物の栄養のバランスが保てていたが、音吉と甚兵衛は明らかに食べ物の偏りすぎでビタミン不足と運動不足から、脚気(かっけ)や壊血病に似た症状が現れたのだった。

彼ら二人は手足が異様にむくんでその苦痛から歩く事も出来なくなり、食欲も減退して徐々に衰弱していきついに音吉、甚兵衛の順で亡くなってしまった。長平は島に流れ着いて二年を待たずに全ての仲間を失ってしまい『鳥島』でたった独りの生活を余儀なくされたのであった。

誰もいなくなった島で独り過ごすのは長平にとって辛い事(誰でもこのような状況に陥ればそうなるだろうが)だった。実際何度も自殺を考えたらしい。しかし彼はその度に、

『こうして自分のみ生き残ったのも神仏の思し召しかもしれぬ・・・』

と考えるようになった。故郷への思いを断ち切り、一生この無人島で住むくらいの気持ちで生きてみよう、焦ることはやめて五体満足で生きていることを有り難いと思い日々を過ごしていこうと前向きな考え方に改めたのである。こうすることによって彼は気持ち的に随分楽になったという。

もしこのような状況に自分が身を置く事になったら・・・・
好きなものも食べれず、好きなお酒も飲めず、おなごもいない・・・う~むちょっと耐えられそうにない(笑)。こうして考えると自分もどっぷりと豊かで便利な生活の中で生きている事をいやおうなく実感せざるを得ない。現代に生きるほとんどの人々が同じ考えを持つだろう。

長平はその後、しばらくたった独りの無人島生活を続けるが何年か後に新たな漂流者が次々と『鳥島』へと辿り着いた事もあって彼らと協力しながら生活を続け、ついに大変な苦労を重ねつつも船を建造して島からの脱出に成功する。この辺りは実際に本を読んでみると面白いので省略させて頂く。

長平は一旦、本土の江戸へと向かい幕府の取り調べを受けた後に故郷の土佐へと帰った。故郷では当然の事ながら彼が死んでしまった事になっていた。なにせ彼が土佐沖で行方不明になったのが24歳の時であり、帰郷した時には彼の年齢は37歳になっていた。13年間も故郷の土を踏まずにいたのだから致し方ない。さぞや肉親も驚いた事だろう・・・。
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彼は故郷に戻ってから妻帯し60歳まで生きた。人々は無人島から無事に生きて帰って来た彼の事を畏敬を込めて“無人島長平”と呼んだという。彼の墓は今でも土佐にあって故郷の土の下で眠っている。生きて戻れてホントに良かったなぁ長平。





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Author:伊蔵
伊蔵と申します。
幻の焼酎から名を頂きました。
お酒・一人旅・自転車・麺類好き・歴史・読書・雑学・ネット・路地裏散策・廃道・街道・地図マニア。血液型:B型

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